あぶらえ

イヴィッチ4

絵の色を豊富にしたいと思ったら絵具の色数を減らせばいいという「発見」は最初のものだった。あれからかなりの年月が経ったように思うが最近はそうでもないかなと思うようになった。確かに原則的にはそうなのだが、絵の色が豊富に見えることと色の鮮やかさとは別のものだし個性的な色ともそれは違う。個性的で新鮮で豊富な色味を持つ絵を描きたいとなれば…。
しかし自分の絵だとすればそこにどんなものが現れても喜んで受け容れるべきだろうな。(画)
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植物的女性

トワンと散歩していると羽虫が顔の周りに飛んできて鬱陶しい。季節柄あちこちで虫をよく見る。飛んだり這ったり独特の動き方をする。虫は動くが動物ではない。土から生まれ死んだら土に帰り再びそこから生まれる彼らは植物の世界に属しているのだ。
そうなると「私にとって生は不可解だ。それは私が死んだ者たちとこれから生まれる者たちの間にいるからだ」と言ったパウルクレーは虫みたいな人だったのだろう。
今日は描いているこの木に女性の形を見た。人の女というのもきっと植物的なものに違いない。(画)
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裸体

古代から美術には人の裸体が頻繁に出てくる。男性像よりも女性像の方が多いと思えるが、特に近代になるとその傾向は顕著で圧倒的だ。
僕は学校を出てからは一度もヌードモデルを前にして描いていない。必要性がなかったからだし見なくても人の裸くらい描けるさと高を括ってもいた。果たしてそうだったかどうか?
最近流行りの乳房がやたらに大きい女性は好きじゃない、少なくとも描く気はしない。尻は大きかろうが小さかろうが後ろについているのが美しいのだ。前についてたら奇形でしょ。イヴィッチという人は美や生き方に鋭敏で時に身勝手なほど神経質な女性だから乳房は大きくない。(画)
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遠近法

あるブログ記事に遠近法のことが書かれていた。
二点投影図法でティッシュの箱を描くというもので遠近法の描き方が説明されてあった。間違ってはいないが問題はその図法で描かれたティッシュがビルのように巨大だった事だ。ここに遠近法の機械的理解の錯誤がある。
リアルな空間描写の為に編み出された「遠近法」が求めているものは実に心理的なものであって、だから基準は人の感情の側にあり写真機の如き一点透視の側にはない。この前提条件なしに遠近法を真実だと思い込むのは絵画にとっては非常に有害なのだ。(画)
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独創性の正体

ジャコメッティの描いては消しまた描くという作業、セザンヌの遅々として進まない筆と画布の表面。それら一連の行為が具体的に何を示すのかやっと最近見えた気がする。要するに彼らは描かれた又は画布上に現れたそのイメージと、描き出そうとしている自己の内部のイメージとの違和感を乗り越えようとしていたのだ。一般の画家からすれば許せるその種の違和感を彼らは許すことができなかった。言い換えれば自己のニュアンスを徹底的に追求したという事。それが彼らの独創性に繋がる。しかし自己のニュアンスを妥協なしに正確に掴むというのが実は至難の業なのだ。(画)
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技巧と誠実

セザンヌが絵の完成の為に数十回もモデルにポーズをさせたという話。画家の表現への誠実さとして好意的に語られてきた。一方職人的で仕事師的立場の人からは絵の保存性への疑問と拙い技巧でしかないものの神話化だとして非難される。
さてどうだろう?
ほぼ完成したように見え、まあこんなものでいいかと手頃な所で筆を置いた作品より、ほんの少しの違和感であってもそれにこだわり追求され遂には未完成に終わった絵の方がしばしば深いものがあるじゃないか。でもある教師がこう言った、手際よく描かれたものが一番いい、何度も描き直された絵には迷いや疲れが表れてしまってよくないよと。
さてどうだろう?
気に入らないものは気に入らない理由があるし、他人から見た絵の良し悪しなどどうでもいいと思えるなら最後まで自分の好きなように描けばいいんだよ。(画)
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パレット

ある美術雑誌に日本の現存する画家数人の使用中のパレットの写真が掲載されていた事がある。形状や大きさ、どこにどんな絵具を置くかその種類や数まである程度分かるようになっていた。別の技法書にはヨーロッパ近代の巨匠達の絵具のリストが載っていた。ずいぶん興味深く眺めたものだ。
今でも自分にない色感の絵に出会うとそのパレットの色を是非見たいものだと思う。

画家の自画像には手にするパレットがよく出てくる。それが実際のものを忠実に写したものかどうかは分からないが、顔の表情を始めとする画面全体の事物の中でも特にその画家のスタイルが如実に表れていると思えて仕方がない。(画)
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鳥の歌

描いた絵の意味を尋ねられて「鳥に歌っている意味を尋ねますか?」と答えたピカソは、自分は歌うように絵を描いているのだと主張している事になる。しかし彼の絵描きとしての一生は、自らのアカデミズムと対立しそれを超えようとし続けたものだ。晩年の子供の落書きのような絵でさえ(反)アカデミズムの匂いを感じる。ボナールを愛好していたジローに、絵というものは男性的なもので行き当たりばったりに制作する女性的なボナールの絵は劣ったものだと言ったという所にも、「鳥のように歌えない」アカデミストの鎧に覆われた精神を感じてしまう。(画)
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妖艶なる純愛

彼は純粋な魂を持った人なのだから異性への恋は純愛なのだ。しかしその恋は今のところ全く無意識なものだ。さらにその対象である女性は未だ幼い形をしている。しかし彼らの間に立つガジュマルの樹は既に大きな花をつけその花は妖艶に咲き誇っている。これをどう解釈すべきか。描きながら考えている。(画)
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ガジュマルの樹・夏の記憶

以前の作品に長い時を経て再び手を入れるきっかけはその絵により様々だ。でも大抵はこいつはうまくいってない所があるとずっと感じていたのには間違いない。しかしその具体的な修正方法が見えたから手をいれるのかというとそうでもない。その解決策が見えないまま、どうしたらいいか分からない長い待機の時を経て、今なら解決策が見えないまでも何とかなるんじゃないかと思えるようになったので始めるのだ。
どうにかなるし、きっともっとよくなると思えるからだ。(画)
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