いい版
自分でもここまでよく削るなと思う。板はもう始めから薄すぎるのもあってペラペラだ。板全体が反ってしまってもいる。何度ものプレス圧に耐えられなかったのだろうか。
しかし作業しながら今夜はこれはいい版だという思いを抱いた。こんな気持ちになったのは初めてだ。今までのどの版でも思わなかったことだ。
これはどうやってもいい版画になるしかないという確信を持った。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
自分でもここまでよく削るなと思う。板はもう始めから薄すぎるのもあってペラペラだ。板全体が反ってしまってもいる。何度ものプレス圧に耐えられなかったのだろうか。
しかし作業しながら今夜はこれはいい版だという思いを抱いた。こんな気持ちになったのは初めてだ。今までのどの版でも思わなかったことだ。
これはどうやってもいい版画になるしかないという確信を持った。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
この子がどうしたら軽やかになるかずっと考えていた。あちこち意味を持たせ過ぎて重くなっていたのだ。手の先から流れ出しているように見せていた線や量を思い切って削り落とした。そして手を小さくしたら、顔が明るくなった。やっぱりここでもそういうことが起きた。周囲をいじると主体は自ずと変化する。そのものに問題はない。光を取り込む方法が分かって来た。(K)
| 固定リンク
中国の山水画なんか見ると大きな落款がいくつもある。あれは描いた人?書いた人?詩人?いずれにしろ古くから署名があった。西洋絵画ではルネサンス以前のものにはほとんど署名はなかった。最初期の非常に優れた銅版画のいくつかにE.Sという署名しかないので『マスターES』と呼ばれている画家がいる。他には『Zの画家』なんてのもある。同じ事情だ。
デューラーの時代にはロゴが流行ったらしく彼の作品には『AD』(アルブレヒト•デューラー)のロゴがある。気取りもなく特に注目すべきデザインでもない。他と区別するだけの目的に見える。
他の誰でもないこの私が描いたのだと主張するためのサインが生まれるのはそのずっと後の事で20世紀に入ってからじゃないかな。
ところでアンリルソーはフルネームを飾り文字で立派に描くのだ。さらに立体的に見えるように影までつけてある。彼以外の人がこんな事をやったら絶対に嫌味に見えてしまうだろう。むしろ作品の素朴さと純真さを裏付けているようにさえ見えるから不思議だ。
立派なサインをしたければ人間を鍛えるしかないな。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最初は男の髪が空に向かって舞い上がっているように彫っていたのだけれど、前髪が垂れているのが不自然だからどうしようかと悩みながら彫っていたら、だんだん風が湧き起こって来た。最後には男の頭頂部に向かって風が吹き付けているようになって、これぞ霊気という感じで納得して磨きにかかった。
ずっと前に読んだ本を思い出した。吉本ばななが会いたいと思う人と対談したものだった。その中の一人に霊能力者の宜保愛子がいた。話をしているうちに自分に向かって風が吹き付けて来るのを体感しているという件をよく覚えている。そうだろうな。ガハクのお母さんの葬儀の時に部屋の中なのに御幣が(実家は神道なのだ)ひらひらとずっと揺れていた。
見えないものが風になって動いている。そう思うと周りの風景に生き生きとした色合いが重なって見えて来る。(K)
| 固定リンク
ミニマルアートの初期の作品には内省的で瞑想的で言い換えれば哲学的なものがあった。ハイパーリアリズムにも知的で排他的なほどの内向性がありそれが実に面白かった。今でも面白い。
しかしそのどれもが一つの形式として世の中に受け入れられてしまうと途端につまらなくなる。追随者達が見ているものは開拓者の予期しなかった業績だけなのだ。その形式が生み出されずにはおれなかった個人の問題意識などどうでもいいのだ。そしてマスゲームのようになっていく。
やはりこの版に手を加えることにした。今ならもう少しやれることがある。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
少し笑っているように見える。手を薄くして頰に沿わせたのと、腕の傾斜角を精妙にしたのと、頭頂部の空間を深くしただけなのだが、表情が変わった。頭もずいぶん小さくなってスーッとしたスフィアが広がっている。彫りながら見えて来たものを率直に表すことが出来たら、見えるもの以上のものが与えられる。眺めていると色んな言葉が湧いて来る。今夜は畑にいた二人の人の話が思い出された。その時一人は引き上げられ、もう片方は残されるというあの話だ。スター誕生のオーディションなんかじゃない。内意はもっと美しいものだ。(K)
| 固定リンク
何度彫り直しても常にどこかがいつも変だ。人物のバランスが崩れていたり空間が歪んで見えたり他にもどっか解せない所が新たに出てくる。そしてそれが直りそうで直らない。いやこうすれば直りそうだと思う時があるがその場合は絵としてつまらなく見える。だからたぶん変な方がいいのだろう。
そろそろこの版とも暫しの別れになりそうだ。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
これは2003年に降った雪と同じだ。ふんわり軽くて真っ白だ。ただ違うのはあの時は隣の家に住んでいた。朝起きてカーテンを開けたら前庭(今は塀の向こうに見える庭だ)が真っ白だった。玄関から門までブカブカと長靴鳴らして雪かきしながら振り向くと、家と庭とが清楚に輝いて見えた。まるで花嫁のようだと思ったのを覚えている。ちょうどその朝ガハクは青年が訪ねて来る夢を見た。春になって今の家に引っ越すことにした。なんの前触れもなく突然そうなった。
この雪もそういう雪だ。冷たくなくて美しい。人をワクワクさせる。(K)
| 固定リンク
この地方には珍しい大雪の1日になった。昼から降り出した雪は予想を遥かに超える量だった。
ルノアールは雪は自然の病気だという理由で雪景色はほとんど描かなかったそうだ。でも「ほとんど」というだけで数枚はあるらしい。僕には一枚もないw一方ムンクの美しい雪景色の絵なら実際に見た記憶があるが内容は…通りと家並みが描いてあったかな?画集でなら雪の道を馬車が走っている愉快な絵を覚えている。キャンバスの白地をそのまま雪にして馬や人だけに色をつけてあった。生き生きとした鮮やかな色とタッチの絵だった。
深夜になって雪はすっかり止んでいる。家の屋根も庭も道も線路も森も白い覆いをかけられている。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
右手を彫り直した。もっと薄くてもいいかな?両手に包まれて見えないはずの頰の形がだんだん透けて視えて来た。
顔は彫り直していないのに、ずいぶんすっきりとした頭部になった。手と頭は別々のものではなくて、一体になった時に初めて包まれた顔は輝き出す。死んだと思われていた人が蘇る瞬間だ。(K)
| 固定リンク
解剖学が盛んだったルネッサンスの頃画家も相当この知識を持っていたと言われている。例えばミケランジェロの作品は解剖学なくしてはあり得ない人体表現の正確さを持っているとか。
一方、ダヴィンチは絵を描くよりも解剖そのものに熱心だったらしい。当時男性の生殖器と精巣を結ぶ線がどこにあるかが議論されていて、ダヴィンチは排泄とスピリチャルなものが同じラインに乗るとは思えないとして精巣と陰茎を直接繫ぐ別の線を見つけようとしていたそうだ。解剖(予想図)として彼の緻密なデッサンが残っている。とにかく知を得る為に相当量の血が流されたわけだ。
現代の画家にとっては適当に人体バランスさえ分かってればいいんで解剖学なんて知らんでもいいんだよ。
壁紙の色がよくなった。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
犬の周りに砥石をかけた。男と背中合わせに寝そべっている様子が犬の側から見てもはっきり分かるようになって来た。深く抉れた場所がしっかり磨けたら、犬のシルエットはもっと際立って来るだろう。なかなか砥石の形が石のカーヴに合わなくて、砥石を持つ指さえ邪魔になるくらいにそこは狭い空間なのだ。犬も磨いたら膨らんだので、また少し彫り直して形を引き締めた。永遠に続く仕事、終わることのない仕事、大好きなものを彫っているときの状態だ。辛くても面白い。(K)
| 固定リンク
FPSゲームというのをやってるとちょくちょく「下手くそ」というような意味の事を言われる。口惜しいけど心当たりがない訳でもないのでちょと凹む。下手くそと言えば絵の技術が仲間と比べて上等と思ったことはない。むしろ上手い奴はたくさんいた。そういう自覚を持ちながらそれでも絵を描き続けるには表現と技術の関係を考え直してみる必要があったと思う。絵においては結論は出ている。
下手くそと言われてしまうゲームの中でも同じことだ。下手くそなりのやり方がきっとあると思う。この歳でネトゲーという面白いものを見つけた。
この版画、少しバラバラな感あり。でも今までなかった感覚を感じる。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
この続きを今なら彫れるような気がして、今日アトリエの作業台の上に置いた。裏には2006と刻んであるから12年前の仕事だ。トワンがうちにやって来た明るさがあたりに広がっている。今じゃこんなに思い切った構図は取らないだろう。
子供をいざ作ろうとした時はなかなか出来なかった。生理が数ヶ月止まって、もしやと期待して産婦人科に行って診てもらった。妊娠してませんという診察にガックリした顔をしたら、先生が「なんだ〜」(堕胎じゃなかったのか)とほっとため息をついて、「じゃあ注射打ちましょうか?」と続けた。私は慌てて断ったが素直に受ければよかったかしら。いざとなると後ろに退いてしまう性格はどこで覚えたのだろう。今内的意識をblitzで鍛えている。今度こそ本当の新しい人を生む覚悟で。(K)
| 固定リンク
絵の修正の為に削るという作業は油絵でもする事はあるが、ここまで表面をきれいに削りはしない。そうまでしなくとも充分修正できるしその途中の状態に面白い効果を見出したりもするからだ。しかし銅版となると大抵「面白い」効果よりも不明瞭さの方が強く出てしまう。だから徹底して綺麗にするのが吉なのだ。それに未だ慣れないでいる。刷りの為にインクをつけた版面を寒冷紗で拭き始めると、右手がだるいと文句を言う。ニードルを使うにも握力がいるが、これは連日の削り作業のせいだ。彫っているより削っている方が多い気がする。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
空から落ち来る線と、地上から伸びた線。ふたつの柱のシルエットがどこから見てもスッと美しく伸びて嫋やかなようにと、今夜も荒砥でひたすらゴシゴシ削った。地面に食い込む根っこの極みまでしっかり磨いたら、何とも言えず気持ちが良かった。すぐ横に寝そべっているトワンとの距離がいい感じなのだ。こういうことの一つ一つで構成されているような生き方をしようと思う。(K)
| 固定リンク
銅版画の修正に使うスクレーパーを3本持ってる。2本は買ったもの、1本は手持ちの金属ヤスリのヤスリ目をならして研いで自作したものだ。いずれも横から見ると涙滴型でその先端を尖らせた形、断面は正三角形でその三つの綾線を版面にわずかに傾斜した角度で押し当てこするように削る。綾が鋭くないと仕事が捗らないし削り面が平らにならない。だから常に研ぐ。
直刻用の道具を使うには研ぎ方を知らないといけない。ビュラン、ニードル、スクレーパー…中には上手く研げないのでこの技法を諦めたという話も聞く。
最初はビュランで苦労した。ニードルの研ぎ方はどんな線を出したいかで変わるんだと最近気づいた。今はスクレーパーに苦労している。けれども僕にとってはどれも仕事の同僚、友達だ。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
この向こう側には天女の腕がある。ふわりと膨らんだ袖のシルエットに綺麗に木の枝が収まった。これでよし。幹が動きのないただの棒杭にならぬように気をつけねば。気がついたこと、思い浮かんだことをどれも見落とさずに実行すれば美しいものになるだろう。背中を彫るのは面白い。誰かに見せようとか他人に気に入られたいと思わずに済むからだ。適当にやるか、徹底的にやるかは私の勝手。自由な状態にあってはじめて豊かに注がれるものがある。(K)
| 固定リンク
宮沢賢治が学校の休み時間にテニスなんかやってる教師にいい指導者がいるはずがないというようなことを書いているのに対して吉本隆明がそんなの関係ないと批判していた。
酒も飲まず女遊びもしないでいい芸術ができるだろうかと本気で考えていた時期が僕にもあった。本当に美味いものや高価なものや本物をしらないで深い芸術が語れるだろうか…でもそんなの関係ねえよと。
この前ゴーギャンが画家になる為に俸給生活と妻子を捨てて家を出たという話を結婚したばかりの若い人とした。「とんでもない人ですね、でもそういう人だからあゝいう絵を描くんでしょうか」
そんなの関係ねえよ…かなあ?
今度は男の子を削っている。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今夜も月のまわりに砥石をかけた。途中で休憩しようとふと右手を見たら、軍手の指に穴が空いていた。親指を除く4本の指の第二関節の表側だ。こんなにきれいに穴が並んでいるのを見たのは初めてで、ちょっと驚いた。砥石を持っている指先なら分かるけれど、手の甲の側だもの。知らぬ間に石に触れてだんだん布が劣化していたのだった。
やっと月が空に浮かんだ。形の必然を求めて苦労した甲斐があった。(K)
| 固定リンク
この議論が成り立つ前提には猥褻は芸術ではないというのがあるんだね。
画家というものはとにかく絵を描けさえすればいいという人種なので、その為にはどんな主題でも構わないという訳で世間的に時々まずいことをする。中には世間の顰蹙を買って喜ぶ性質の人たちもいるしな。
ギリシャ彫刻にだって猥褻なのはあるし、現代でも芸術だけでなく美しく見えるスポーツにだって猥褻なのがたくさんある。不思議なのは美術館、舞台、競技場などで一度に大勢で集まって見て喜んでいる。あれが僕には分からない。僕なら猥褻なものは一人だけでじっくり楽しんで見る。
さて猥褻とは何の関係もないこの銅版画、少しずつ進んでいる。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
梢に砥石を当てたら、雲に包まれた月のように見えて来た。地上に降りて根を張った雲の木だ。そこから溢れる光が線になったり膨らんだりしながら落ちて来る。
ずっと以前に見た夢を思い出した。場所は未明の山小屋で皆が出発の準備をしている。ザワザワとした土間を通って外に出てみると、まだ暗い庭先からニョキッと大きな木が生え出ていた。一晩で現れた巨木の先を見あげようと暗い空に顔を向けた。その大きさに驚嘆。上の方は暗くてよく見えないが、確かに天上のどこかには行けそうだった。空に向かう傾斜は人が登れるギリギリの急角度だった。面白い夢はスケッチするようにしていたので探せば見つかるだろう。黒いノートのどこかのページだ。(K)
| 固定リンク
「絵は男性的なものなんだ。計画を立て意志的に行動する。起きることに受け身な画家はだからダメなんだ」これはボナールを好きだと言うジローに言った言葉だ。(その伝でいけばガハクもやっぱりダメだけどw)
ところで美術での性差について言えば、僕の経験ではこれは逆で、幼児の頃から圧倒的に女性の方が色感はいいし装飾性にも敏感だし美しいものに対する興味は男性よりずっと大きい。現在は美術大学でも女性の方が多いとも聞いた。女性の方が絵描きに向いているかもしれない。
でも当時からそんな風潮は既にあってそれへの反発が既に彼にあったのかもしれないな。
女の子の部分はかなり良くなった。次はその横の母と幼児に向かう。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今朝起きる直前に誰かの声で、
「この旅が終わったら、全てのことに常に1分間の猶予を与えよ」と呼びかけられた。
どうしてかと尋ねると、
「それは都市の時計に負けない為であり、あなたのひどい躊躇に勝つ為だ」と言われた。声だけでなく一部の文字がはっきりと空間に浮かび上がった。それは『猶予』と『躊躇』という文字だった。
時間というものは本当には無いものなのだ。行動の自由が奪われた瞬間から始まった。約束と契約が人の体に時間を刻みつけた。もう一度主体を取り戻すためにたった1分立ち止まる。奴隷解放だ意識の革命だ。(K)
| 固定リンク
削る作業をしていると銅版画家のブレダンとかマリオン彫刻家ジャコメッティがどうしても頭に浮かんで来る。自己の作品を常に修正し作り直し遂には壊しさえしてしまった人々。ある人は彼らの狂気を語り、別の人は天才の飽くなき追求心を賞賛する。観察する人はその人自身の像をそこに重ねるに違いない。どうともご自由に。
女の子少しよくなったでしょ。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
単調な起伏の連続を打破すべく今夜は腰を据えて取り掛かった。一つ一つの塊を波打たせる為には溝を深くするだけじゃダメで、溝の中に光が溜まるように別の帯を刻むことにした。それは銅版画や最近知ったロボットダンス(dub stepと呼ぶらしい)の克明な線描や動きに影響されてのことだ。計算され予想して作られたものはつまらないと思うようになった。予知せず、ただ見つめていると現れて来るものに正確に反応して彫って行く。そういう時には疲れを感じない。あまり長く彫る必要はない。もう少し彫りたいなあと思ったけれど、道具を置いた。少し余力を残してblitzをやった方が良い。(K)
| 固定リンク
「Mの家族」の人々の顔を彫り直している。先ずは女の子からと決めた。彼女の持つ花束が彼女自信を象徴するように美しくならねばならない。前途多難?
全体がエングレービングの深い溝になっているので削るにはとても時間がかかり疲れる。しかしスクレーパーを使いながら見えてくるものもある。何が出てくるか期待しながらの作業はだから楽しくもある。充分に削れたところにはニードルで線を入れた。
ビュランのくっきりした彫り溝も美しいがニードルの膨らみのある曖昧さが今は好きになっている。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
今朝早く起きた。満月がちょうど山に沈むところだった。雲に隠れて輝いて、また現れたその姿のなんと美しかったことか!月と交代するように空はだんだんと青さを増して行った。
耐性が出来た頃に認識が訪れる。思い出さない方がよいものはそのままずっと隠されているものなのだ。人間の意識とは不思議な構造の中に格納されていて、いつでも引き出せるようになっているらしい。必要な時に充分な力の用意が出来ていれば、パパパッと経路が繋がって理解出来てしまう。真実が突然解っちゃうのだ。もしかして、これが内的な人の覚醒と呼ばれているもの?(K)
| 固定リンク
銅版を始めた最初の頃の仕事で、今見るとエングレービングとしても未熟だしイメージも不明瞭、でも未知の技法への取り組みの真剣さと集中感の強さがある、だからこそもう少し何とかなるはずだ。いつもそう思いながら額装して壁にかけてあるこの版画を見ていた。
年が改まったのをきっかけに、よし手を加えてやろうとアトリエの本棚に置いてあるその原版を取り出してみて驚いた。銅板の薄さ、これではまるでブリキ板だ。
現在使っている銅板の厚みは1㎜。版としての扱いを考えるとそれ位がちょうどいい。0.8㎜も使ったがそれだとやや心もとない。手にしたその銅版はそれよりも薄い。そして彫り溝が深く修正の為に削りもしているので板がしなってベコベコだ。見ていたら手を加えるのが忍びない気がしてきた。
迷った末に手をつけるのを諦めた。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
大晦日も元旦も夜になってアトリエに出かけた。今夜の月はスーパームーンなんだそうな。オリオンを従えて冴え冴えと輝く月を見上げ、青白く発光しているように見える野原や山や森を見渡した。月の軌道が高くなる冬のこの情景を眺める度に、白い人が現れた夜を思い出す。真冬の月には何かを現出させる力があるのじゃなかろうか。そこら一帯に満ちているものがあるように思えて、車に乗り込む前にしばし佇んでいた。(K)
| 固定リンク
小さな版をポストカードにしてみた。今年後半は銅版画ばかりやっていた。ウィリアムブレイクのエングレービングに憧れて始めた銅版だったが今はドライポイントの面白さにはまっている。どちらも直刻技法なのだが随分違う絵を作り出す。最高の難易度を要求するエングレービングと表現の奥行きの深さの逆に自由で気ままな技法のドライポイントを知ったことで、銅版なら死ぬまでずっとやり続けられそうだとも思えたのだった。(画)
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)