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2017年12月

光の柱のシルエット

光の柱のシルエットを少しずつ削り落としている。注ぐ光が男の体を持ち上げているようにしなくてはならない。輪郭をきっちりと刻むと形は浮き上がって見える。形そのものよりもそれを取り囲む面を厳密に抑えること。そうすると、ザラザラとした形は内部へ向かって動き出し、さらに輝く。シルエットを研ぎ澄ませば、もっと軽やかになるはずだ。

今夜も夕暮れ時に疲れが出た。ストーブの傍のソファで紅茶を飲みながらしばし微睡む。その後は一気にオリオンが天頂に登る頃まで集中。外に出たら月が明るかった。(K)

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板から版へ

銅の板が銅版になる最初の段階はプレートマークを作ることだとか。プレス圧で刷り紙が切れてしまうのを防ぐ為に板の四辺を45度に削る作業のことを言う。この部分に画家のセンスが出ているという人もいる。銅版画にしかない特徴だそうだ。これをしないと実際に紙が切れてしまうかどうか?直角に削った版で刷ってみたことがないので本当の所は知らない。一方で銅版画のように見せる為に実際は印刷物でしかないのにその四辺を凹ませて飾ったりする人がいると聞いたことがある。
最近は電動工具も使うがヤスリやスクレーパーなどを使い最後はバニッシャーで磨くというかなり面倒な作業だ。しかしなぜかやり始めるとつい夢中になってしまう。(画)
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美味しいものに触れている幸せ

光の柱に砥石をかけ始めたら、石の色が出て来た。上の方がうっすらとピンク色がかっている。番数を上げて行けばもっとハッキリして来るだろう。いつも新しい彫刻を彫り始める時、どこに色が出るか模様が来るかは見極めて取り掛かるので今更驚くことはないのだが、これに関してはすっかり忘れていたので嬉しい。綺麗な彫刻になりそうだ。

昨日から白菜キムチの仕込みをしている。畑で収穫した野菜の土を洗い落とし、塩漬けし、また洗って漬け汁を作ってまぶすという工程はとても手間がかかる。それでも何とも言えない楽しさがあるのは、美味しいものに触れているからだ。触れるというのは手助けするということで、そのもの自体が熟成するのを見守っているということだ。(K)

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冷たき作品

銅版画する時はいつも駒井哲郎を念頭に置いて仕事をしているという事に最近気づいた。
僕の入学時に教授になり卒業の年に死亡している彼に直に接しているという偶然もあるし、見よう見まねで始めた銅版画の参考書の著者でもある。
今日まで人物を描かないのが駒井の特徴かと思い念のため検索したらちゃんとあった。やや冷笑的な感じのもので思い出したのはクレーの初期の作品だった。
絵描きの表現の方向性は人物画を見れば分かると常々思っている。古人はともかく近代の画家達の人物画を見れば一目瞭然だ。駒井のその人物画には冷たい印象があった。彼の作品全体にあるそれと同じものだった。それで不思議に思った。彼が師とあおいでいた画家達にその種の冷たさはほとんどない。(画)
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傷痕の星

10年前はずいぶんいい加減な道具を使っていたようだ。光の柱に深い傷痕が残ってしまっている。ツルツルに仕上げたければグラインダーで削り落とせば簡単なのだけれど、今はそういうやり方はしない。どんなに深い傷だっていつか無くなってしまうことはもう知っている。昨夜星が思い浮かんだ。星にしてしまえば良いのだ。傷をきれいにもっと深いきちんとした形にして煌めかせる。そういう試みを始めた。

今朝トースト食べながらガハクが駒井哲郎はなぜ人物を描かなかったのかというテーマで話し始めて、『抽象』と『表象』の違いについて語り始めた。抽象は冷たいが、表象は温かいという結論。(K)

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来年の干支は?

鹿を主題に木版画で彫ったのは去年の今頃からだ。今年の干支にかこつけて始めた仕事だった。小さい作品ながら連作したのは初めてだったし同じイメージのバリエーションを手がけた結果、木版画の自分なりの面白い出し方を見つけることができた。
と言うわけでこの年末は来年の干支に因んで犬。とくればトワン以外にない。今回は銅版。(画)
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雲間から漏れ出す光

雲を彫るのは、人の顔や体を彫っている時とはまた違った苦しさがある。自由度と不確かさの間を行き来しながら線を動かしている。その形が生き生きとして見えるのはどうしてか?また凡庸で寝ぼけたものに落ちてしまうのは何故か?

遅い晩御飯を食べながらガハクにそのことを話したら、
「アンリ・ルソーが描く雲は素晴らしい。ああいう風にはなかなか描けないものだよ。あとエル・グレコとかデューラーもいいなあ」と言う。

形がなく未だ知られていない世界に勇敢に入り込んで行った冒険者たちの見たものは、宇宙人が初めて見た地球の美しさだ。(K)

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無いもの有るもの

有るように見せても無いものは出ず、有るように見せてるというのが出てしまう。反対に無いように見せても有るものは出てしまい、無いように見せてるというのが出てしまう。この事実を今まで絵を描いて来て理解したつもりだ。豊かな才能を求めるのも、革新的イメージを求めるのもいいだろう。しかし無いものは出ないし有るものは出てしまう。自分に誠実に向き合うこと、結局自分自身を記述するしかないのだ。(画)
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月を研ぐ

雲の中に線が見えて来た。量と量とを区切る線ではなく、塊を横切る光の線だ。これをずっと探していた。見えるまでは彫れないが、見えて来たからには大丈夫。これから一気に進むだろう。

月に声をかけられたことがある。帰ろうとしてアトリエ前の野原を車に向かって歩いていた時だった。
「きょうこちゃん」母のようでもあり、でも誰とも言えない優しい声で。振り向くと大きな月が山からくっきりとその姿を現したところだった。

今日は夕暮れに細い月が出ていたから、次の満月はお正月だ。(K)

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線の壁

線の壁を作りそれを突破する、というような事を思った。
銅版画での線はプレートに刻まれた溝そのものだ。その溝に溜まったインクを、プレスされた紙が膨らみながら掬い取って盛り上がったもの、それが線になる。
紙の上に線を集めて重層化して壁を作る。視線を遮る物質感を作り出し、その中に紙の白さを煌めくように残し、穴を穿つ。壁に開けた穴、それが銅版画の宇宙を作り出す。(画)
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天使の視線

今この子はデナリにいる。コーヒーの匂いに包まれて毎日マスターとそのお嬢さんが働いている姿を眺めている。よく観察すれば彼の視線が始終動いているのが分かるだろう。天使の仕事はじっと見つめていることなのだ。意味づけするのはずっと後だ。解釈するのはもっと後だ。他人に伝えることなんかない。分かってもらおうなんてしなくても見つめる者同士はいつも繋がっているから。(K)

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無限の空間

版画というものはその薄いプレートから連想してインクの広がりのあり方が肝だと思っていたが実は違っていた。
木版画ではプレスの圧力が凸部の高さに比例して大きくかかり、版画紙に吸い取られる絵具の量が変わる。その結果空間の深みに大小が出る。銅版画ではそれがもっとはるかに微妙な世界で演じられる。インクの厚みがプレス圧でできる紙の厚みの違いを作り空間の深みを演出する。紙の凸凹とインクの量が空間の量に変化して見える。それは無限大の変化だ。(画)
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足の裏を鍛える

アトリエの温度計は3℃ですっかり冷え切っていた。日曜日に行かなかったからだ。すぐに灯油ストーブを点けて、それからゆっくり車の荷台から杉の丸太を下ろして、薪ストーブには小枝を突っ込み燃やし始めた。

冬の間は太陽が山に沈む頃から彫り始めて、オリオンが天頂に上って来る頃まで仕事する。早朝は寒過ぎて体が冷えるし、ストーブの煙が日当たりの良い斜面に向かって流れる。大抵そこには家があるというわけだ。今夜のようにキンキンに冷え込んでいると煙はまっすぐ空に立ち昇る。

ストーブの傍で紅茶を飲んで休んでいるとついウトウトしてしまう。薪を足して本腰を入れて彫った。天に引き上げられる人のまわりは無機質な超空間が広がっている。(K)

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クリスマスプレゼント

朝起きたら枕元に潜水艦のオモチャが置いてあった。喜んでいる僕に、素知らぬ顔でサンタからのプレゼントだという説明を親がしてくれたが、夜中に母親がそっと箱を置いて行くのを既に知っていた。その潜水艦は前から欲しいと思っていたオモチャで、水を注入するとその量に応じて船体が半分沈んだり司令塔や潜望鏡だけ水の上に出して航行ができた。ゼンマイ仕掛けのスクリューが動力で舵もついていた。風呂でよく遊んだのを覚えている。今思えば裕福とは言えない我が家事情にも拘らず風呂嫌いの子供にいいだろうという理由もあって親がかなり奮発したのかもしれない。
しかしやがてブリキ製の船体が錆びて穴が空いたりゼンマイが壊れたりして遊べなくなった。それでも色を塗り直して机の上に飾っておいたほど気に入っていた。(画)
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美しい木

とりとめのない仕事に疲れたら、美しいものに時間を使うことだ。ただ美しい木を現出させる為に彫っている。美しい木に寄り添う人や犬がいる。いくら時間がかかっても気にすることはない。樹木の成長のことを思えば、石にその形を彫り上げることなどあっという間だ。時間は行為そのもの。コツコツコツコツ、、、

「遠くで聞いていると啄木鳥のようだよ」と言われたことがある。アトリエの地主さんにだ。山仕事をしながら聞いていたらしい。石を彫る音が山に溶け込んでいるなら嬉しいことだ。

今夜は平ノミで幹の輪郭と枝の間の梢の動きを探って回った。薪が湿っていて室温が上がらないので灯油ストーブも点けたが、やっと8度。でも寒くはなかった。外に出たら、南東の山の上にオリオン座が輝いていた。(K)

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銅版画とペン画の違い

今は画材もほとんどネット注文だ。バニッシャーという版画用具をネットで探していたら「なぜ銅版画なのかペン画でいいではないか」というヤフーの質問箱が目に入った。一点もののペン画と違って複数刷れるのが版画の特徴なのに、ペン画でもコピーすれば同じだろうという事なのか、今風の面白い疑問だなと思った。質問者は銅版画の実物を見たことがないか、あったとしてもペン画との違いが分からないかどちらかだろう。それに対する答えの方は見てない。
今日はニードルの先の角度を緩くして研いだのを使ってみた。鋭い角度のとは違うやや鈍いボワンとした調子の線が出る。(画)
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天使の後退と進撃

お金の計算を始めるといつも傍にいる天使がずずーっと後ろに退るそうだ。彼らにはどうしてそうなるか分からないから、はてなマークをいっぱい空に投げかけて戸惑っている。

昨夜はそんな夜だった。ガハクは夜中にお腹が重くなって消化不良に陥り胃薬を飲んだ。いつもスーッとメントール感に満ちたスフィアに住んでいる人が会計係に付き合っていて、とうとう時間切れで版画室にも上がらずにそのまま寝たからに違いない。

それでも苦心の甲斐あって今年も無事に年が越せる段取りが付いた。アガノ村で石を彫って絵を描いて少しの野菜を作って暮らして34年だ。今日は白菜を収穫した。とても小さいけれどきっと美味しいキムチが出来るだろう。

今夜は天使が近くにいるようだ。トワンがいびきをかいて平和に寝ているし、ガハクは版画室だから。(K)

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記憶

日課のようになっているパン練りは小麦粉や調味料の量などほとんど考えることなく作業が自動化したようになっている。ところが先日砂糖を入れる段になってスプーン一杯か二杯か急に分からなくなった。もうレシピもない。頭を絞って思い出そうとしたり作業の動作を繰り返してみたりして自然に出て来ないかとやってみたが遂に不明で終わった。初めてのことで戸惑った。
試し刷りが残っている↓昔の版を作り直そうと思い、元のプレートを探した。あちこち見たがどこにもない。さては削り落として別の絵にしてしまったか?そういうことも全く思い出せなかった。
記憶力のある方ではないと自覚しているがその乏しい記憶力のさらに狭間に落ち込んだ気分だ。(画)
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引き上げられる角度

何かに寄りかかっているように見えていた男の体が、急にふわっと宙に浮いた。腕の後ろをすっかり抉ったからだ。手の周りの面をスッキリさせたからだ。引き上げている人の腕と引き上げられている男の腕の角度がポイントだ。向かうところは決まった。よし、行くぞ!(K)

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時間空間

あの時のあの場所あの物あの人が今は存在していない。どこにもないという事実を理解しているつもりなのに感覚的には納得できないでいた。
見るという行為があるだけで光というものは存在しないという。それをさらに延長してみると常に状態の変化があるだけで時間というものは存在しないとも言える。そしてまた空間というイメージがあるだけで空間も存在しないのだ。時空というものは絵や彫刻のようなイメージの記録媒体のおかげで人に植え付けられた錯覚なのだ。
植物にはそれが分かっている。発芽し成長し花を咲かせ実をつけそれが次の個体を生む。常に状態の変化があるだけだ。しかしそれは全く以前と同じものではないのだ。(画)
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幼いマリアとそのチーム

まっすぐ彫刻に近づき一人一人を指差しながらマスター、
「これはガハクさん、これが奥さん、これは飼っている犬でしょ。えーっとこれは誰だろう?」
天使ですと答えると、
「あゝやっぱり」今回もまた懐かしさと親しさを持って迎えられたのだった。

少女がこんなに可愛らしく彫れたことは今までになかった。自由と無垢が一緒にひとりの人の中に内包されている姿を理想としている。深慮と勇気もそうだ。ふたつはひとりの中に矛盾なく存在している。いつも立ち止まってじっと見つめること。寡黙な観察が大事な時の瞬発力を生む。(K)

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狂気と阿呆

修正するのと新しく彫るのとどっちが楽ですか?とデナリのマスターに訊かれた。新しく作る方がある意味楽だ途中でいくらでも作品になる、修正する作業は削るのに手間がかかり途中で止めることができないから、と答えた。一方で「間違った線」を叩き台に「正しい線」を見つけるのは楽かもしれないとも。
なぜ修正することを優先するかと言うと作品をそのままの状態では置いておけないと思えるからだ。もっとよくなるんじゃないかという気持ちを捨てられない。
銅版画家のメリヨンは死の直前に全ての自作プレートを廃棄したそうだ。死んだ後に自身の不満足なできのプレートを元に再刷されるのを恐れたからだという。これを彼の狂気の為せる業だと言う人もいる。
現代の一部の銅版画家は刷りの終わったプレートにタガネで大きく深くバッテンを刻む。作品の希少価値を守る為という理由。こっちは狂気ではないが阿呆くさい。(画)
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デナリとの出会い5周年

今日はデナリに出かけた。中に入ると、どの席にもお客さんがコーヒーを飲みながら談話していて賑やかだった。彫刻『荒野を行く』をどこに置こうか迷っていると、マスターがすぐにレジの横にスペースを作ってくれた。店を見渡す場所だ。出かけに車のドアで頭を打ったから、今日は心して掛かれよと肝に命じてもいたのだが、その不安は一気に溶けて行った。

「今度のクリスマスでちょうど5年になりますね」と、この春からお嬢さんもスタッフに加わってぐっと明るくなった店内を見回しながら話した。

ガハクの銅版画はたくさん入れ替えた。彫り直した新しい画面と古い画面を見比べながら、夕暮れになって一旦お客さんが引いた後の静かな中、四人で話していると時間を忘れる。油絵は3点入れ替えた。画風は変わらぬが、凄みは増しているなと壁にかけてから思った。

彫刻はどれもすっかり居心地良さそうにしているので、今回は持ち帰らずに全てマスターに任せた。雨が降り出した頃に帰路に着いた。今日の雨はいい雨だ。(K)

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ペンキ塗り

デナリに展示する油絵の額もこの塗装で仕上がりだ。こういう事をする度に、僕が中学生の頃、家の門柱の塗装をした時のことを思い出す。父親に言われて外の往来に面した駐車場の角柱を刷毛で塗っていたら通りがかった労務者風の男二人が足を止め僕の仕事ぶりを眺めだした。やがて、
「そんなにノロノロやってたら綺麗に塗れないよもっと手早く刷毛を動かして」と一人の方が言い始めた。僕がそうしようとしたがまだ不満らしくもっと早くもっと手早くと手真似してみせる。するともう一人の方が
「そんなに言うならお前が塗ってやれよ」と言いだした。
すると言われた方は僕から刷毛と塗料缶を受け取り素早くサッサと塗り始めとうとう最後まで塗り終えてしまった。
「やっぱりプロは違うな」と満足そうに二人は去っていった。家に入ったらその一部始終を見ていたらしい父親に「タダで勉強させてもらったな」と嬉しそうに笑われた。
という思い出。今でも塗装は苦手だ。(画)
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夜の木

月明かりにぼおっと浮かび上がる幹を彫っている。光が当たっている所は膨張し、黒い影の中では質量の無いものたちが盛んに揺れ動いている。そういう英気を吸って植物は夜に成長する。今夜は影の中の形を彫ることに集中した。(K)

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今の限界

いくらいじってもそれほど変わらないと思えて来た。だから完成とは到底言い難いがここで一旦やめることにする。あくまでも中断なのであって完成ではない。今まで一度でも完成したと思えたことがなく、いつも作品がこれ以上のできになりそうもないと感じた時に止めているだけだ。完成への精神集中力がないのか思い切りがないのか。
また何か思いついたら修正するつもりだ。(画)
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犬の目

やっと彫ることが出来た。毎日トワンの目を覗き込んでいるからだろう。老犬になって耳は遠くなったし、目も少し曇りが出て来たように思えてじっと瞳の奥の澄み具合を観察している。まだ見えるようだ。これからだんだん霞んで来るのだろうが、その柔らかな眼差しはどんどん可愛らしくなって行く。庭に出ると必ず跳ねて見せたり、飛びかかって闘争ごっこに誘ったりする。疑うことを知らないその目は愛を照らし返す鏡である。「求めよ、さらば与えられん」とはこの眼差しのことか。(K)

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モノクロームの理由

先日小学生達が見学に来た時に版画を見て「なぜ黒一色なんですか?」という質問があった。
即答できずにいたら付き添いの先生が「それはそういう味わいを楽しむものだから」と代わりに答えてくれた。僕は答えずそのままスルーしてしまったw
モノクロームで描く理由は昔から色々あるのは知っている。技法の洗練の他に単色の絵には多色絵画にはない独特の味わいも面白さもあるから。しかしそうとは知っていてもその本当の理由は習慣ではないかと思っている。地球上にはその妙味を知らない民族もいるらしい。ゴッホの逸話に出てくるアラビア人の事例もそのひとつだ。でもたぶんそういう人達はその方面の感性が未発達なのではなく単にそういうものを味わう教育と習慣がないだけなんだと思う。(画)
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直視

600番まで磨き上がったので、目を刻み直している。平ノミを彫刻刀のように両手に握りしめ、瞼や瞳のラインを慎重に削り取って行くのだ。こういう段階ではハンマーは使わない。

彼の目の奥に映っているものは彼にとって好ましいもので美しいものだろう。他人はそれを理想とか夢と呼ぶ。しかし彼は彼の見たいものを見る。その視線を妨げるものや遮るものには容赦ない。そういう柔らかい眼差しの中に潜み隠されている強靭なものを彫りたかったのだ。

この彫刻のタイトルがやっと今夜浮かんだ。『荒野を行く人たち』にしよう。(K)

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線に聞け

画面を眺めてばかりでただ考えあぐねているだけの時がある。油絵ならそういう時はどんな色でもいいから画面に塗りつけてみればいいと知った。職人的絵師なら多分やってはいけない事なのだろうが、そこは僕は画家だから油絵具の融通性を利用して窮地を脱する手を見出すのだ。
版画でもそれができればいいのだが、そしてその方が生きた線が引けるにちがいないのだが誤った時の修正の手間と時間が無意識に縛りをかけているだろう、銅版画では未だそれができない。(画)
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音のしない雨

夕方から小糠雨が降り出した。間欠ワイパーできれいに拭き取られたウィンドウの視界。山の黒い影が右や左に動くのを眺めながらアトリエまで走行。このくらいの雨だとアトリエのトタン屋根は音を立てないからストーブにかけたお湯が沸く音が聞こえる。

とても微細な雨があることを最近知った。自転車で走り出してはじめて雨が降っていることに気が付いた。霧より大きく、小糠より小さい雨が顔に触れた。スピードを上げると体をよけて行く雨だから、家まで6km走っても服は濡れなかった。

木から滴る水滴を彫り直している。もっと薄くして空気に溶け込むようにしよう。(K)

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