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2017年11月

密度

絵はどのくらいの距離で見たらいいのかという質問を受けたことがある。
さて画面を見る適正な位置というのはあるのだろうか。画面の対角線の長さの3倍の距離から見るのがいいといい加減な事を言ってる人もいたな。
近寄ったり遠ざかったり好きな場所から見ればいいだろう。遠視や近視や乱視の人だっているんだし。
一時流行ったアメリカ美術の大画面は展覧会場の大きさと無関係ではなさそうだ。

細部に神宿るという言葉も最近知った。あの大画面の細部を慎重に見ている人を想像するとコミカルな風刺画しか浮かばない。しかし細部とは何かという議論になりそうだ。

今は画面の密度を上げたいと思い始めた。絵具の厚み、タッチや陰影、色の深み、最終的には画家の意識の集中がもたらす結果だろうが。(画)
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広がる空間

もう限界だと思っていた犬と人との間の空間をよく切れるノミで少しずつ攻めた。木の幹の手前から、男の肩越しから、真上からと角度を変えノミの種類をいろいろ変えては彫ってみる。最後は櫛歯ノミの側面も使った。それでもまだダメな箇所はヤスリで削った。今夜はここまで。また数日したら、きっともっと奥まで届くようになるだろう。そういうものだ。

入り口は狭くても(入って行く勇気があれば、諦めなければ)その向こうに美しい野原が広がっている。彫ってみないと分からなかったことだ。(K)

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額装

額のヤスリがけを始めた。寒いのと埃になるし手間も食うので可能な限り簡単に作る方法を考えつつ。額といえば昔絵を額装したら「遅れてる」と言われた。その頃の「進んだ」感性はそういうものだったらしい。世の中の勢いに「遅れる」のが怖いからいつでも「進んだ」場所にいようとして結局後追いという「遅れた」場所にいるのが分からない。時代の寵児を目指すとそうなるのか?
エバの帽子と髪と耳飾りに細部を作る。時間のかかる方向だが行くしかない。(画)
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見つめる天使

天使にいつも見つめられているのはその事実に無自覚な子供の頃だけだ。大人になっても勇敢に嘘を言わずに正直に生きて行くことが出来るとしたら、その人の傍にはいつも天使がいるのだろう。

お金のこととか、人付き合いのことで煩っていたら、いくら命があっても足りない。あっという間にこの世の生は終わってしまいそうだ。自転車で転んで前歯を3本失ったのもそういう時だった。つまらぬことから遠ざかる勇気こそ本当の戦いだ。いい香りがする所には良いイメージがある。描きたい色が浮かんで来る。彫りたい形が見えて来る。

庭のレモンバームを一掴み摘んで来て輪ゴムでとめて子供に渡したら、頭の上で振っていた。爽やかな香りがそこらにいっぱい降り注いだ。(K)

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新鮮なうちに

ドライポイントの線はニードルで彫った溝の両側にできる「めくれ=バー」が特徴だ。その土手のようになった所にインクの溜まりができそれが刷られて独特の効果が出る。バーを取り去れば鈍い浅い調子の線だけが残る。どのくらいバーを削るかでも線の表情が変わる。しかも銅という脆い金属は刷りを重ねていくうちにプレス機の強い圧力を受けて徐々に壊れていく。だから一番いい時に刷られないといけないということになる。偶然の必然化。考えてみれば非常に困難な技術で僕などがとうてい獲得できるとは思えない。新鮮さだけを念頭に置いて仕事している。(画)
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額装

ガハクには床屋に一度だけ行ってもらったことがある。いつもは私が適当にカットしてあげているのに、そのときは忙しかったのか煩わしかったのか、理由は忘れたが、帰って来た彼の頭を見てがっかりした。それからはずっとシーズンごとに彫刻みたいに形を見ながら整えている。そんなもんでいいのだ。

ガハクの絵のスタイルが確立したのはけっこう近年になってからだ。アガノ村に来てしばらくは悶々として画風が定まらなかった。でも彼はそういう状態を無理やりに切り開こうとしなかった。あの時期に始めた木版画、プレス機を買って本格的に銅版画もやり出した。「もう絵は描かないのか?」と心配になったほど夢中で真剣だった。直彫りのエングレービングは、インクを溝に詰めてきれいに拭き取ってプレス機にかけるだけの、行程こそシンプルだが、時間のかかり方と彫りの克明さはとても古代的だ。

絵が再開されたのは、白い人が現れた時からのようだ。月に照らされた森がすぐ横にあり、そこから溢れ出す霊気にすっかり包まれた意識が熟成するまでに35年もかかった。すっかり老いぼれたかに思えた私たちだが、まだやらねばならないことがある。一枚の絵を完成させるために、額を作る方法も考え付いた。私が製材し、ガハクが整形塗装をやる。買ったものよりもあたたかく艶がある。額装出来たらデナリに展示してもらおう。(K)

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祝福された版画

天使たちに目が怖いという感想を頂いた。この絵に限らず壁にかかっているどの絵も皆そういう印象らしい。それもちゃんと的を得ている。
さて天使たちに刷る所から見てもらいこの版画は特別に祝福されたのだ。いい絵になることは間違いない。だから色々やらねばならない事がたくさんある。やり方は分かっている。(画)
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ぞうけいの天使

昨日のアガノ小の子供達の訪問は、トワンのエスコートでこの部屋から見学して回った。

石を彫るということは絵を描くことから始まる。絵を描けない彫刻家が多過ぎる。詩を知らずに歌えるはずがない。造形の言語は山から森を抜け広く豊かな大平原に広がって大海原に出てまた戻って来る。

芸術家になりたいと言った子が2人もいた。ぞうけいの子も入れると3人だ。7歳の決意は何らかの形で実現すると言われている。無垢は最内部にそっと大事に保存されるのだ。磨こうとする時にいつでも取り出せるように。(K)

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天使たちの来訪

今朝天使たちがアトリエにやって来た。数日前に知らされていたことではあるが地元の小学校に通う1、2年生たちだ。授業の一環らしい。しかし全員で8人足らずだ。山のぞうけいの生徒の絵を見てから我々の彫刻、油絵、版画を見せた。版画室では銅版の刷りを実演して見せた。わっと歓声が上がる。
子供の感想が面白い。なぜこの白い人には目や口がないのか?未だ途中なのか?油絵の一部を指し示し、ずっと奥の方まで指が届きそうだとか、触ろうとしても触れない感じだとか。
展覧会をやるならその前に子供たちに作品を見てもらおう。その反応を見れば自分の作品が世間に通用するものかどうかがよくわかる。そういう気持ちになった。(画)
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形の品格

スーッと香るような形があって、それは丁寧に探しているうちにやっと出て来ることもあるし、手をかけ過ぎて途中で消えてしまうこともある。でもそこで決定的なのは、嘘のないこと自由なことだ。やってみて後悔したことはない。

この彫刻も完成させずに10年も放っておいたが、知らないうちに樹木の動きが見えるようになっていた。月の光が幹に映って梢の影がチラチラ揺れている。(K)

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ヘビとエヴァ

修正を加える予定のプレートが作業机の隅に重ねてある。時々それらを一枚ずつ眺めてどこをどう直そうかと考える。これからどう遊ぼうかという感じで楽しい。昨日まで手がけていたリンゴの木のプレートが一段落したのでその重なりの中から一枚引っ張り出した。
「ヘビとエヴァ」この絵の始めの題がアンジェリカだった頃に比べるとずいぶん変わった。エンジェルがエヴァになりヘビが登場。今見るとエヴァにしてはこの顔では不十だ。帽子の縁に沿って小さなベルを付け加えエヴァの左手(プレート上では右手に見える)を変えようと思う。他にも直す所はたくさんありそうだ。(画)
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透過する月光

垂直の壁に向かってコツコツと刻んで行くのにだいぶ慣れたけれど、3時間が限度だ。家に帰ってケルビム一家も磨きたいので今夜はここまで。道具を置いた。

シンプルな形の連続の中に不思議な有機性を持たせる為に、平ノミであちこちニュアンスを付けながら丁寧にさらっている。縁に飛び出そうとする光を輪郭線のぎりぎりのところで留める。溝を彫って丸みの中で光が遊ぶようにするのだ。月だけが真剣にそれを眺めている。

今夜は木枯らし一番が吹き荒れている。東の空からオリオンが出て来た。星が輝く季節になった。(K)

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女郎買いよりも

エングレービングで始めた銅版。ビュランの後ニードルで加筆し、修正の為に削ってはニードルで彫る、を繰り返していたら今ではすっかりドライポイントの作品になってしまった。
冷たいビュランの線の近代性もいいがドライポイントの微妙な世界の奥行きに気づいてみれば、その艶っぽいとも言える線の魅力に今ようやく気づいた所だ。嘗て村山槐多が「女郎買いなんかより気持ちがいい」とパレット上のカドミウムレッドの絵具に向けて言ったその言葉、それをそのままにニードルの線に見る思いがする。(画)
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光る梢

月光に照らされた梢の彫り方が閃いた。コツコツと手で彫っているからこそ見つけた方法だ。光の動きが美しいならば凹凸の理屈なんかすっ飛ばせばいいのだ。裏側から照らされると縁が際立つ。枝がテラテラと光っている。面白くて仕方がない。こういう時がたまに訪れるから彫刻はやめられない。死ぬまで、いや死んでも石を彫っているだろう。白く光る大理石大好き。(K)

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眠りの天使

ストーブで仕事部屋を暖めていると空気が悪くなるせいかウトウトする事が多い。版画机を前にして版面にニードルを立てたままとかスクレーパーで削っている途中でふっと眠りに入る。すると夢を見る。小さな夢。直前まであった想念の続きだったりもするが、時に夢の中で版画のイメージが先に進んでいる事がある。覚醒して版面を見ると実際に少し進んでいるように思えることもある。時間差で起こる記憶の入れ間違いだろう。いやもしかしたら眠っている間になかなか上手くいかないへぼ絵描きを可哀想に思った小さな天使が手伝ってくれているのかもしれない。(画)
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地山(ヂヤマ)

彫刻を学び始めた頃に教授に言われたことをときどき思い出す。
「顔ばかりいじっていないでヂヤマをしっかり作りなさい」と。(ヂヤマとは人物が立っている足元の地面のこと)確かに足元がすっきりするとその上にあるものの品格が上がって見える。

子供の頃に母が笑いながら話してくれたことを思い出す。
「今日はいい靴を履いていたから同じ店員だったのに対応がぜんぜん違っていたよ」と。他人を着ているものや履いている靴で判断するところはさすが洋装店の店員だ。

ガハクとのふたり展をやる時にどの服を着てどの靴を履いていこうか迷っていたら、
「いつものスニーカーでいいよ。気取らないほうがいい」というので、赤いバスケットシューズとジーンズにした。展覧会の期間中に靴が擦り切れてちょっと寂しい思いをしたが、まあそれで良かった。

戦車ゲームのblitzのすごいところは、これほど高度なゲームなのに最後までお金をかけないでも遊べるところだ。課金してやっている人たちと同じことができるシステム。新しい世代が国境を越えて共有して遊んでいるプラットホームがあることに感心している。
「カネにならないことはやらないような人はやっぱり貧相だよ」とは今夜のガハクの言。

ヂヤマを粗い砥石でゴシゴシ削り落として少し離れて眺めてみたら、スーッと香るように美しかった。手でやることでしか届かないところがある。歩いてしか辿りつけない場所がある。(K)

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イメージに生きる

銅版に向かっていると作業自体が単純なこともあり過去の出来事を色々と思い出す。しかしそれを文章に書こうとは思わない。最近文章を書くのがひどく難しく感じる。文字自体を書くのも面倒だ。昔から自分の字体が好きでない。昔のノートをたまに見るとたくさん文章を書いている。その中に当時はこんなことを考えていたのかと驚くようなものはほとんどない。どれもこれも今の自分の中にあるものばかりで進歩がない。これなら今後も書く必要はないだろう。
しかし人間言葉で思考するのだろうからこれは非常にマズイことなのかもしれないが、まあ絵を描いていればいいだろう。イメージに生きる人間だと思うことにした。(画)
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石の摂理

今夜はマリアと犬の間の狭い空間を根気よく磨いた。足元に黒い縞模様が浮かび上がって来て、波が押し寄せているようにも見える。

石の塊を割ってこれから彫り出そうとする時、どの面を底にするかいつも考える。模様が顔を横切らないように、逆に純白で美しい色がいちばん大事な所に来るようにと石の摂理を読む。太古の昔に堆積して熱変性を起こした石の中には秩序がある。それに逆らわないように彫り進まねばならない。

このUSAから来た大理石はとても癖が強くて、何度も天使の頭や自転車の輪の位置を変えねばならなかった。それでもやっとここまで来た。足元を洗う波の祝福の潮騒が聞こえる。(K)

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初心忘るべからず

こうして見ると相変わらずあまり進んでいるように見えないな。時間をかければいいわけではないがかけないと進まない仕事もある。ニードルで彫った溝は浅いから削るのに一番手間がかからないはずだ。壁にかかっている以前のエングレービングの版画にはよく見ると銅版表面の凹凸がうっすらと刷り込まれている。エングレの溝は相当深いからずいぶん修正の為に削ってあるのが分かり当時の集中力に自分ながら驚く。
初心忘るべからず…体力の衰えかもしれないなどとも思う。しかしそれならそれでやり方もあるはず。(画)
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支える木

木が人のように見えて来た。両足を踏ん張って彼を引き上げようとしている。背中が触れている辺りの奥まった場所の形が大事だ。梢の触れ方は柔らかく、枝は太い血管のようにダイレクトに連結されなくちゃいけない。慎重に彫り進めるために今夜はここまで。ゆっくりとやるのが良い。内的流入に従ったペースを保つのだ。(K)

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動くように仕上げる

鳥を削り落とし樹全体の形を作り直すことにした。
途中の過程というのは常に美しい。だからこそ先へと向かう意欲も湧いてくる。そして作品が満足できるまでの完璧な状態になるように作業しているのは間違い無いのだが「完成」した時にその途中にあった生き生きしたもの、動いているもの、それら「何か」を失うことが多い。それが「完成」のもっとも悪い側面だ。なぜだか分からないが当然のような気もする。(画)
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寄り添う犬

トワンのまわりに空間が欲しくて、辛抱強く少しずつこすり落とすようなノミの当て方をして広げていたら、急にスッと柱と犬との間に距離が出た。それまでは光が乱反射して形が判然としない場所だったのだが、ようやく半調子で影が美しい場所に変化した。彫り難い場所の奥まった向こう側には、もうひとつ別の世界があるということだ。

今日は尻尾の後ろの光の柱と男の脚の間に柔らかな草むらを作った。(K)

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感覚の実現

引き続き「きらきら」した感じを試しているのだがなかなかうまくいかない。感情の問題ではあるものの絵で描き表すには絵という技術の問題に還元されねばならない。その方法を探し当てられるまで色々と手と目で試している。今日も削ってばかりいた。削るなかで考えつくこともある。(画)
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メランコリア

デューラーの銅版画に『メランコリア』と題された作品がある。天使が物想いにふけっている姿だ。トワンがときどきそういう顔をしている。よく似ている。

地面に接する極みをきっちりと彫ったら、木も犬もスッと明かるさの中で際立って来た。両側にそそり立つ柱が天界の門のように見えた。ロダンの地獄の門よりこの方がずっと素敵じゃないか。(K)

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きらきら

きらきらした風の中にあるものたちの事を考えながらニードルを使っていた。
インクと紙の相性、拭き取り具合とプレス圧、刷りの感じもだいぶ摑めた。もうここで終わってもいいのだが。(画)
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独りの月

月の周りは雲のように自由に彫りたいと思うのだが、しかしこれがなかなかピタッと決まらない。深くえぐって光がたまる部分をあちこちにこしらえた。そうしたら、月よりも周囲の方が眩く活気立って来た。

道具を片付けて汲み置きのバケツの水でメガネを洗いながらふと見上げたら、高い窓から丸い光が差し込んでいた。雲ひとつない藍色の空をひとりで照らす月は、寂しく厳しく美しかった。(K)

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きらきらした風

トワンと散歩をしていると木の梢や葉が太陽に照らされてキラキラと光る。川を流れる水の泡立ち、川岸や土手や路傍に生えている草がキラキラと光る。そこでは人や動物や道行く車もきらめく光としてある。
でもただそこにあるだけなら光るだけでキラキラしない。風だ。風がなければ風景は動かない。風景全体がキラキラ光って見えはしない。(画)
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森の月

夜の森の入り口で犬を放して戻って来るまで待っていると、鈴の音が山道を駆け上がり、そこらをそぞろ歩いて、しばらくするとまた音が近づいて来る。鬱蒼とした森の下草の軟らかなシダ類の上を子鹿のように走り回っていたトワンの姿を思い出した。

この彫刻の表に人間がいて、裏には犬がいる。表に雲を彫った。そのちょうど裏側が木の梢になっている。表裏が一体となることを夢見ている。(K)

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イヴィッチという人

主題として始めたその人の最初のイメージを今はそんなに意識していない。というよりも絵の中で変化するイメージというものは作者自身の意識さえも離れていくべきだと思う。それを受け入れた後改めて見返してみればこれがイヴィッチなのかもしれないとも思えて来る。
確かに絵は絵自体の論理を持っているのだ。一本の線は海と空の境界を表しもするし、人と花の違いを曖昧にする事もある。
ニードルの鋭い先端と銅の軟らかな表面が反応して作り出す線の不思議さと面白さをもっと知りたいものだ。(画)
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月発掘

表面にあった月をもっと奥の方へと彫り直している。梢の中に隠されていた月を掘り起こしているように、在るはずのものが在るべき場所に見つかった。そこへ向かってまっすぐに進む。見えない時も闇雲に歩いて来たけれど、見えて来ると早い。雲が切れて光が差したような気持ちだ。(K)

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