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2017年10月

わが師

アトリエの本棚にある駒井哲郎「銅版画のマチエール」を時々開く。技法の手引書にとどまらず氏の銅版画に対する考え方が書かれていて非常に興味深い書だ。子供の頃に銅版画に出会い一生を銅版画制作にかけた一種の憑かれた人でもある。文章も味わい深い。
僕が大学に入学したての頃、仲間とどこかソリが合わずただ一人デッサンしていた部屋に来られ技術指導をしてくれた。その時どうして皆と一緒の場所で描かないのかと言われた。
その頃の僕は版画というもの自体にほとんど興味がなく氏の存在も近いものではなかった。そして銅版画を始めた時には既にこの世の人ではなくなっていた。今では遠い過去を思うようにしてわが師と読んでもいいかなと思える。
本の中に右手がすっかり疲れたと書いてある。銅版画のインクの拭き取りの事だ。今日は確かに拭き取りで右手の疲れを感じた。(画)
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生きている月

ひと月ぶりにレリーフに手をつけたのは、瀕死のアダムを彫りながら気がついたことがあったからだった。でも、いざ彫り始めると月に引き寄せられた。

もっと月って魅力的で生き生きと動いているものじゃなかったか?これじゃ型通りだ。

彫って行くうちに膨らんだり歪んだり光が水に溶け出したりした。こういう半調子を使いこなしたい。レリーフの完成はもっとずっと先になった。(K)

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ちったあ努力もしなくちゃね

ボイスはある時そう言ったらしい。少しの皮肉とユーモアが混じっている。ドイツ語だから正確かどうか分からない。しかし何かを成そうとしたり獲得しようとしたりする時に必要と思われている努力という言葉、意識の方向性は、人から自発性を無くさせ心を頑なにし発想の自由度を失わせると思うから実によくないと思っている。努力しなければ到達しえない場所には天国ではなく地獄が待っている。
しかし人は怠惰に堕する生物でもある。だからちったあ努力もしないとね。くらいの努力がいいのだ。(画)
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守護天使K

あれは今朝だったか、昨夜だったか?
「僕には守護天使のKとトワンがいるから大丈夫だ」とガハクが言った。あのようにはっきりと言われたのは初めてだ。

アトリエに着いて昨日の続きを彫ろうと思ってノミを手に持ったが、どれも切れ味が悪くなっているのを思い出した。すぐにフイゴに火を起こしてノミ打ちを始めた。焼き入れも終わって、送風を止めたコークスの残り火で湯を沸かして紅茶を飲んで、次はフォークリフトの点検もやった。なので、今日は石は少ししか彫れなかった。しかし石を彫る為にはどれも必要な作業なのだ。

今日も明るいうちに帰ることにして家に電話、お米を洗って吸水しておいてくれるようガハクに頼んだ。
「はい、分かりました!」と明るい声が返って来た。長いことコンビを組んで来た。ぞうけいの子供らに鍛えられた二人である。

今夜は柚子を絞った酢で稲荷寿司を作った。これはいつ食べても香り高くてほんとに美味しい♪(K)

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完璧なもの

完璧さを求めて作品を修正しているんじゃない。このままでは目指しているものと違うと感じる所を叩き台にして自分の志向している(無)意識の可視化が目的だ。完成度の高さでも完璧な作品でもないのだ。自由に線が引ける自由に色を塗り形を描く。心はその時自由に解放されているだろう。制作する行為のそういう場所に自分を落とし込みたいのだ。(画)
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新しい線の発見

新しい形が見えて来るまでは黙々と雨の音を聞きながら彫るしかないようだ。今日は午後遅くなってやっと木と人との間に風が吹き込んだ。未来的でなけりゃ彫る意味がない。そこに発見がなければただの労働だ。どんなに理屈をこねてもその違いははっきりとしている。

アトリエでは明るいうちに仕事して、夜は庭の工房に運び込んだケルビム一家を磨いている。体が冷えないように、心がいつも活気立っているように、この冬を上手に愉快に乗り越える計画を練っている。(K)

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今宵限りは

ダニエルシュミットの映画「今宵限りは」って変な映画で、今日はあの登場人物たちの黒々と隈取りをした目を思い出していた。大きな目の種族の夢とあの映画は何か関係があるのかな?時期的にどうだったかも思い出せない。夢が先で映画のイメージを利用して絵を描いたのか、映画が先で夢がイメージとして映画を利用したのか、どっちだろう?
とここまで書いたら自分でも何を言ってるのか分からなくなった。どっちでもないかもしれないし。

ニードルが少し自由度を増してきた。(画)
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救う木

道路には台風で吹き飛ばされた木の葉や枝が散乱していた。アトリエの土間にも水が流れた跡があった。まだ小さな水たまりが残っていたので、地面を引っ掻いて水路を作ってやったらやがて小さくなって帰る頃には消えていた。山の緩やかな斜面だから水はけは良い方なのだ。

大きな風が吹いて屋根が吹き飛ばされたこともある。ひどい雨が降ったりすると雨漏りもする。どか雪の重さに耐えられるようにと柱を補強している。建物はだんだん頑丈になっているが、心はいつも不安定になる。もう終わりかな、いつかは片付けなくちゃと思いながらも、今日も彫った。この意欲を支えているのは何だろう?たったひとりだったらここまで来れたかしら。

救う人は木だったというビジョンは気に入っている。幹の動きが少し出て来た。(K)

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漫画少年だった

中学生の頃COMという漫画雑誌の作品募集に応じて漫画を描いた。同級生数名と共同で夏休みに暑さでフーフー言いながら筋をみんなで考え鉛筆で下書き、ペン入れをして筆でベタ塗りという共同作業の末にできた投稿原稿は結局ボツだった。それも当然でその後に発表された入選作品とは僕らの目から見ても雲泥の差があった。その人は漫画家としてデビューし、その名前も長い間覚えていたが今では思い出せない。
今こうしてモノクロームの版画を作っていると人生の始めの頃の漫画少年だった自分とこれは無関係じゃないなと思えてくる。(画)
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力の正体

太い幹が男の上半身を支えている。緑の梢が柔らかく彼の体を包んでもいる。そういうイメージを裏側に彫ろうとして途中でやめてしまった理由について考えながら彫っていた。地道で途方もない労力をあまり目立たない場所に注ぐには、力と意欲が不足していたのだ。

今はどうか?やっぱりダメだ。彫り出して1時間もしたら疲れてしまって、ソファで少しだけ休みつもりがたっぷりと寝てしまった。起きた時は外はもう真っ暗だった。

外灯を点けに外に出て、帰る前にもう少し彫っておこうとまたノミとハンマーを持って続きにとりかかった。すると、居眠りする前よりもずっと手に力がみなぎっている。彫るべき場所も形もよく見通せた。2時間半も休みなく彫り続けることができた。

山道を足取り軽く登ることができる時は、足の裏を天使が持ち上げてくれているのだそうだ。今日はそいう力を得ていた。優しい励ましに支えられている。(K)

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刻印する

「大学ノートの裏表紙にサナエちゃんを描いたの、でも鉛筆で描いたからいつの間にか消えたの、もう会えないの2度と会えないの」という歌を昔ラジオで聞いた。(鉛筆ではなくボールペンとかマジックで描けばよかった)

「刻印」という目的にとっての技法はアルタミラ鍾乳洞に始まって水彩→テンペラ→油絵の発明に繋がる。その意味でなら銅版画は木版画より優っている。しかし太古から中世までその目的には時代的なものの象徴化があった。現代では個人の思想観念感情の「刻印」が表現活動を支えているように見える。

自意識の刻印化から抜け出さないと自由に絵が描けない。銅版をカリカリ削りながら思った。(画)
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死を語るなかれ

ゆうべ布団に入ってから突然トワンの歳をひとつ余計に数えていたことに気が付いた。今度誕生日が来たら13になるということを春の頃からずっと意識し続けていて、だんだんその日が近づいて、とうとうその日になったらさらにひとつ足してしまったようだ。死を恐れるあまりの時計の早回し、ただ少しボケただけなのかもしれない。彼は2004年生まれと覚えていよう。

物足りない後ろの空間を埋めるために彫った犬が光を放ち始めた。男の体は地面から少し浮き上がっている。天に引き上げられている瀕死の男は、「実はそっと降ろされているんじゃないか」とガハクは言う。物語は逆転し始めたようだ。だからトワンも一歳若返ったという訳か。死を語るなかれ、いや、死を怖れるなかれ。(K)

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感受性に忠実に

描いては消しまた描いては消すを繰り返す制作を目の当たりにして、ジャンジュネは画面に神の像を見、サルトルはそこに実存の追求を見た。当のジャコメッティはたぶん半分気が狂っていたのだろうが、自己の感受性に過酷なほど忠実だったのは間違いない。そしてその絵は若い画学生だった僕を大いに勇気付けもしてくれた。最初に見た衝撃を忘れていない。

机の片隅に今まで作った銅版をいくつか置いていつでもそのどれでも手直しできるようにしてある。一枚を一度に完成までもっていこうとしないで途中まであるプレートに手を入れたら今度はまた別のにとりかかる。油絵でやっていたやり方だ。気楽でいい。写真は少しぼけてるな。(画)
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後ろ姿の軽やかさ

表側に400番の砥石をかけ終わったので、再び裏側に回ってまずは200番から。砥石をかけながら考えた。この空間の無名性が未来的なんだなと。後ろには何もないということがこの彫刻に軽やかさを与えている。これは新しい美しさだ。

今夜から薪ストーブを使った。外に出て煙の行方を確認したら、風向きが良くて川の方へ煙が静かに流れていた。すぐに火力が上がって煙は紫色になって立ち昇る。ほんのりと暖かくて気持ちよく仕事ができたおかげで、帰りに自転車で走り出してもぜんぜん寒くなかった。(K)

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音楽と絵

音楽を聴くと空間的なイメージが湧くというのは当たり前のことだろうか?例えば暗い森の中にいるように感じるとか広々とした荒野の遠くからリャマの集団がやってくるのが見えるとか。
その反対に絵を見ていると音楽が浮かぶというのは一般的ではない気がする。少なくとも僕にそういう体験はあまりない。やっぱりそれは音楽家特有のことだろう。悪く言えば職業病だw絵描きにだってある、何を見てもその描き方を考えてしまうという悪い癖があるようにね。
今日引き出しから出して手を入れた。ブログに載せる為に修正し始めた版画を写真に撮り過去の画像と比べたら結構時間をかけたのに前のとほとんど変わらないように見えたので驚いた。もっと手を入れるつもりだがその時は変わって見えるだろうか。(画)
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12の宝石の内意

祭司の胸には12色の宝石が縫い付けてあって12の部族を表しているのだそうだけど、善と真理の組み合わせが12種類あるというのがその内意。三層に分かれた清涼な気圏のそれぞれに4つに領域がある。

「あなたが読んでおられる本は何ですか?」と聞かれて、
「それを言うと面倒な事になるから言いません」とニコニコしながら答えた。うちの門の前に訪れた伝道者との会話だ。もう20年も前の事だ。面白いビジョンが浮かんだらそれはすぐに彫刻のテーマに結びつき勝手に自由に育っていく。10年も経って眺めてみると、その時には理解できなかったことがぼんやり刻まれていて、今その続きを彫っているのが必然のように思えて愉快だ。

仕事というのは人に頼まれてやるのは霊的な段階で隣人愛、誰にも頼まれないでやるのが直感に導かれる天的な段階の愛に包まれている場所なのだ。誰にとやかく言われることもないそこは自由で明るい場所なんだ。行ってみたことがある人ならば知っている。あゝここは懐かしいところだ。子供の頃遊んだ場所だって♪(K)

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自意識

版画は刷って初めて絵になるので最終的には刷りが問題だ。版面を見て刷りの結果を予想するのだが思わぬ誤算が生まれる。いいこともあるが悪いことの方が多い。つまり期待したようにならないわけだ。
それが苦痛だった時に比べて最近は思わぬ結果になっても落胆しない、むしろそれはそれとして許せるようになった。誤差の範囲とみなすことができるようになったとも自分に甘くなったとも言える。自分に甘いのも時には必要だ。過度な期待は大きな落胆を生み創作意欲さえ下げさせてしまう。悪くもないぞと思ってみればそこには拾い物さえ見つかる。
たぶん自意識を使わずに見ることができるようになったのだ。かといって他人が見るように見るのとも違うのだが。(画)
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天使の眼差し

このところずっと裏側を彫っていたが、今日は表側に回った。いよいよ砥石をかけながら仕上げてゆく。中空に浮くこの子は天使だ。天使に瞳がないのはいかにも淋しいから慎重に平ノミの角で刻んでみた。優しい眼差しでケルビムの長を眺めている風情になった。こういう視線に見守られていれば悪いことは起きないだろう。そんなことを思いながら彫った。(K)

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妥協なき

「イヴィッチ」をまた始めた。あちら立たせばこちら立たず、みたいな感じで行きつ戻りつを繰り返している状態。銅版画ではよくある事なので焦らないように焦らないように…。それにしてもこんなにうまくいきそうでうまくいかないのも珍しい。
妥協なき制作態度…というやつを思い出す。セザンヌがモデルの胸のボタン一つを描くのに数十?回ポーズさせたとか、ジャコメッティの作っては壊す制作の仕方とか、宮沢賢治が生涯にわたって作品に手を入れ続けたとか枚挙にいとまがない。
しかし彼らだって実際には瞬間瞬間少しずつ妥協しながら進んでるんだよ、謂わば妥協の連続なんだよ、そうしなければ何も生まれないもの、それがどの程度の次元なのかという問題に過ぎないんだよ。その次元は個人の意思を超えた所にあるんだよ。(画)
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『K』のロゴ

裏側の中央に『K』と彫った。いつもは線彫りで凹ませているのだが、今回は凸彫りだ。花の香りが天使を宙に浮かび上がらせているように思えて彫りながら愉快だった。

ゆっくり手彫りで探っているといろんなことを思いつく。やってみると大抵良い事が多い。機械では絶対巡り会えない一瞬の陰影を捉えて、新たなイメージに乗り込む。

花と月を組み合わせてKを見せるこのロゴは、岡山で二人展をやろうと作品を仕上げにかかった6年前にガハクが考えてくれたものだ。あまりにも洒落っ気のない不愛想なKという字が楽しく見えるようにと。しかし今はそれからも解き放たれて自由に遊べるようになった。月日はわたくしという自意識を柔らかく成長させてくれた。(K)

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嘘には困ったものだ

バニッシャーという銅版面を磨く道具がある。彫り跡や版面の傷などをスクレーパーで削り取った際にできる細かい傷を消す為のものだ。今までどうもうまく使えなかった。丁寧に磨いても小さな傷ができてしまう。
困っていたのだが昨日奥さんに「空研ぎの方が番数が細かいのよ」と言われた。オイルも何もつけずに磨いてみた。確かに版面が綺麗になるではないか。つけたオイルを拭きとる手間もない。
取り扱い方にはオイルをつけて磨けと書いてある。技法書でもそうだ。頭から信じてそうして来た俺はなんて馬鹿だったんだろう。銅版画を始めた頃からずっとそうして来たのにぃ!
あれは嘘だったのかあ!(画)
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未来的空間

裏側を彫るのが面白くて仕方がない。今までになかったことだ。柔らかな面が交差するときに出来る線を見つけるのが楽しいのだ。深く抉られた場所の一番奥に小さな足を刻みながらそこに未来的空間を感じていた。この空間意識は古代に繋がっている。(K)

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どこへ行くのか

ニードルの先から生まれる線の微妙さが面白くて仕方がない。
刷られた時に現れて来る生っぽさと精緻さ、生き生きしていると同時にはかなさをも持っている。たぶんこういう表情の豊かさは他の銅版画の技法にはないだろう。それだけにコントロールするのは難しい。制御しようとしないで遊ばせてもらうという感覚でいればいいのだ。どこへ連れて行ってくれるかを楽しみに作っていけばいいのだ。(画)
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隣り合う形

幼い女の子の頭部がふんわり豊かな髪の毛に包まれているのが好きだ。どんな髪型にしても可愛らしい。七五三のお祝いが終わるまでは長く伸ばすのが習慣になっているようだ。幼いマリアは髪にリボンは付けていない。大事な通信を傍受するのに支障がないようにだ、なーんてね♪

実は小さなハートのペンダントを刻んでみたのだが、似合わなかった。背中のリボンの羽を引き立たせる為にも頭はすっきりさせた方が良かったのだ。

壁に貼ったカレンダーの裏側には、毎日の筋トレの記録が書き込まれている。今日も仕事前にやった。3年続いている。腹筋、スクワット、腕立て伏せの他に最近は大学の時に野口さんに教わった『みっちさっちみちせさちせ』(右の乳首→左の乳首→右の背中→左の背中を順番に糸で引かれたようにクニャクニャ動かす体操だ。腰も同じように『みこしさこし』とリズミカルに動かすコンニャク体操)ずっと死ぬ間際まで石を彫って行くにはそれなりの用意と覚悟が要ることを身にしみて感じている。(K)

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インク詰め用具を自作

版画に使っているゴムローラーがへたって来たのでネット注文しようかと思って検索したらそこに基礎的知識を再発見。
銅版画は凹部にインクを詰めなければいけない。その為の用具としてならローラー以外にもあるのだった。専門用具として高級で高価なのは鹿革を使ったダバー、数万円する。他にフェルトを固く巻いて使うという方法もある。自作してみた。ただし生地はGパンの端切。それをぐるぐる巻きにしてセロテープで固定。使ってみるとローラーよりもむしろこの方がいい。手元が柔らか過ぎるなあと思ったらピンと来た。トイレットペーパーの芯の中に詰めた。なんとぴったりサイズ。これはもう奇跡w(画)
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彫りきる

足先がどんどん喰い込んで向こう側に抜けてしまいそうなくらい深くなって来た。むかし「Kさんは残す量より捨てる量が多いからなあ」と半ば呆れたように言われたことがあるけれど、いい形に辿り着くまでは仕方がないのだ。それでも石の物理的限界は知っている。自転車の輪の薄さには大理石は耐え得ないからシルエットだけで雰囲気を出す。

ペダルを漕いでいる男の体が少しずつ軽くなって中空に浮いて来た。やっとここまで来た。良い感じだ。(K)

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多様性というバベルの塔

多様性こそパワーだと演説している人をニュースで見た。人類全体に民族主義的排他性が以前より露骨になり始めたように見える今、復古的であるはずなのにむしろ進歩的な宣言にも聞こえる。
「多様性」で思い出した。
旧約聖書にあるバベルの塔は人類の神への挑戦であり全能の神はその思い上がりを言語による人類の分裂で応えたと書いてある。それでいくとですね…う〜ん?
民族主義は神罰どおりの成り行きって事でしかないけども、一方、多様性はその「神罰」を逆手に取ってパワーに変え再び人類は結束しようという。もしそれでバベルの塔を再び建てようとすればそれは人類の神への再挑戦ということになるんだな新しいバベルの塔だな。
そんなことを考えついて深夜の画室で一人笑ったのであった。
また一枚彫り直しを始めた。(画)
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背後の贅沢

いくら抉っても限界がないように思われた左脚がやっと定位置に納まって来た。しかし左右のペダルの整合性を満足させるほどの奥行きはまだ出ていない。男の後ろ髪に装飾性を施したら随分スッキリした。後ろ姿は美しくなくちゃ。今日のところはここまで。

顔を洗いに外に出たら、山の上に月が冴え冴えと浮かんでいた。コオロギが辺りの草むら一帯で鳴いている。虫の声の数くらいそこらに溢れる霊とも意識とも呼ばれる者たち。一体何を語り合っているのだろう。そんなことを考えながらゆっくりと自転車を漕ぎ出した。月明かりでぼんやりとだが、森や畑が見渡せる夜だ。(K)

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「すなどる人」

この版画もここまでか。少し修正したいという箇所はいくつかあるけれど大きな変化はもう期待できないという感じがする。そういう所で終わりにせざるを得ない。
ドライポイントの面白さを自分なりに掴んだと思う。インクが縦に盛り上がったり沈み込んだり、横に滲んだり広がったりするという他の技法にない独特のマチエールを知った。(画)
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14年いっしょ

子犬のようになって来た。くつろぐ姿にもう冬の厳しさはない。いつもいっしょにいるから山に日が沈めばすぐに部屋に入れてやる。早朝から外に出たいと布団の上からツンツンされれば、雨戸を上げガラス戸を開けて出してやっている。今日で14歳になった。ちょうど今日は日曜日で『山のぞうけい』の子供達が全員集まっていたので皆が祝福してくれた。トワンがいてこそあたたかさがあるのだ。あと何年いっしょにいてくれるだろうかと考えるよりも、心の筋肉をトワンがいるうちに十分に鍛えようと思っているのさ。(K)

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イヴィッチ4

絵の色を豊富にしたいと思ったら絵具の色数を減らせばいいという「発見」は最初のものだった。あれからかなりの年月が経ったように思うが最近はそうでもないかなと思うようになった。確かに原則的にはそうなのだが、絵の色が豊富に見えることと色の鮮やかさとは別のものだし個性的な色ともそれは違う。個性的で新鮮で豊富な色味を持つ絵を描きたいとなれば…。
しかし自分の絵だとすればそこにどんなものが現れても喜んで受け容れるべきだろうな。(画)
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