天使の住処
やっといつも見ているトワンの甘やかな姿が出て来た。二つの柱が互いに反射し合ってそこだけ明るくなっている。四方から光が集まって来て影を消すので明確な線を探しながら彫っている。しかし目指す場所は狭くて小さい。ハンマーを振るにもノミを当てるにも慎重な角度と振幅で果敢に攻めて行く。天使の寝相は上から眺めるのが一番可愛らしい。(K)
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やっといつも見ているトワンの甘やかな姿が出て来た。二つの柱が互いに反射し合ってそこだけ明るくなっている。四方から光が集まって来て影を消すので明確な線を探しながら彫っている。しかし目指す場所は狭くて小さい。ハンマーを振るにもノミを当てるにも慎重な角度と振幅で果敢に攻めて行く。天使の寝相は上から眺めるのが一番可愛らしい。(K)
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にわかに魑魅魍魎が跋扈し始めたようで非常に鬱陶しい。こんな時こそ絵に集中していればいいとも思えるが、振り返れば美術の世界に足を踏み入れた昔から美術界でも政治の話ばかりだった。そこから抜け出せて今の集中があるのだ。早くこんな世の中を出て別の世界に行こうじゃないか皆の衆。
「既に死んだ人とこれから生まれる人の中に私はいる」(クレー)
歴史を生きようじゃないか。(画)
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最終的には形の美しさはシルエットに出るのじゃないかと思えて来た。中の形は出来るだけシンプルに美しい線に向かって動いていけばいいのだ。
光に照らされたところには必ず愛されているものがいる。光だけしかない場所は虚しい。(K)
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イヴィッチが裸なのは当然で着衣の姿を描こうとは最初から思わなかった。美は女性の裸体にこそあるとブレイクも言ってるのだ、それがエロスなのかどうか知らんけども。そういえばイヴィッチはイヴの別名でありイヴは元より裸じゃないか。イヴは禁断の木の実を食べて裸を恥じたとすれば、イヴィッチは裸になれば禁断の木の実の在り処を知る事ができると思っている女性なのだ。
この版画、ほぼ出来上がったという思いがする。これ以上の何かを今はできない。あとちょっと修正を加えて終わりとしよう。たぶん別のプレートでもう一枚作る。
ドライポイントは面白い。色々な発見をしている最中だ。(画)
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天使は翼を、妖精は羽を持っている。透き通った羽だ。滅多に羽ばたかせることはない。羽も翼も表象なのだし飛ぶのに力は要らないからだ。スーッと空に浮かび上がって、行きたいところへ一瞬で移動する。
裏側を彫り始めてみたら、やるべきことをほとんどやっていないことが分かった。3人の間の空間はまだ不確定で柔らかい。ペダルを踏んでいる左足がやっと出て来た。マリアの右足は埋もれたままだ。可愛い姿を出したい。(K)
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対象を直に見ながら描くべきかどうかなんて事は絵の世界にとって瑣末なことでしかない。絵の練習として対象物を見て描く事から始めるのは、諸所の事情も含めとりあえず間違いない方法というだけだ。この方法には見ないと描けなくなるという大きなリスクがある。人によってはそれでもいいのだが、僕の場合はこのリスクは深刻だ。ものの表面ばかりが目についてその再現性に夢中になり好き勝手な絵が描けない。ものは心で見るものだ。子供の絵からもそれは誰の目にも明らかではないか。(画)
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グラインダーで後頭部の髪の量を減らした。ハンマーの振動には耐えられない細さになっている所にだけ使う。この石は柔らかくて彫りやすいのだけれど大理石の中では脆い方だ。久しぶりの機械仕事で左脇腹の筋肉がピクピクした。機械は体に堪えるようだ。手作業に戻ったら突っ張りはやがて取れた。
裏側を彫っている間は、ほとんど表に回って見ることはない。今夜は最後に石の粉を払い落としてグルリと180度回転させ、3人と1匹の顔をしばし眺めた。皆凛々しく微笑んでいるのが良かった。いい彫刻になって来た。(K)
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ドライポイントの線はとても面白い。銅版画の技法の中でいちばん身近で気楽に入り込めるのにいちばん変化に富む。しかしその変化をコントロールするのは実に難しい。狙った調子が出たと思ったらその一方でさっきあった効果が消えてしまったりする。彫り込んだ溝の両側にできるバーのいたずらなのだ。
むしろコントロールなんかしようとしないで現れた偶然の効果を自分のイメージにどう取り込めるかが楽しいのだ。(画)
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樹木と水の柱の間にトワンを彫り始めた。男の腰の辺りの裏側にちょうど良い石の量が残っていたので、寝そべっている姿にした。空間の構成やなんかもうどうでもいい。彫りたいものが浮かんだら素直にまず彫ってみている。削り落とすのはいつだって出来るのだから。それよりも実は、面倒臭がって降りたものを無視することが多いのだ。そうやって霊感はどんどん遠のく。ただ愛おしいという情愛に降りて来るもの、料理の味も最後はそれに尽きる。(K)
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だいぶ前の事だけれど、ブログに掲載した画像に「直線が珍しく出ていますねw」というコメントを貰った。それで始めて気づいたのだが、周辺の緑ばかりを写真にしていて直線で構成された人工物をほとんど出していなかった。
今描いている絵にも直線状のものが出てくるのは稀で言うならば曲線ばかりだ。これは僕らの生活が物理的に自然に囲まれているからというよりも意識がその中にあるからだろう。
銅版画、刷るたびに落胆していた以前に比べ今は刷るたびに嬉しくなる。相当の進歩だ。(画)
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男が寄りかかっている木の幹は表からは見えないけれど、大事なところだ。根っこから幹にかけて大きなうねりが出せればいいのだけれど。
今日は鞴で火を起こして、ノミ作りをした。コークスをケチらず送風を強めにしたから、しっかり硬めに焼き入れ出来た。彫る手を休ませ耳栓を外すと、外の暗がりからコオロギの合唱。今夜は鹿の声がときどき響いている。(K)
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贅沢なフランス料理を学生に食べさせて映画作りの知識を教えようとした映画監督がいたそうだ。
僕も若い頃に本物の絵を描くには芸者遊びも知らなくてはと信じてた時期があった。うちの奥さんだってそうらしい。彫刻教師に女体のエロスを知るならいつも見てるモデルなんかんじゃなくストリップを観て来いと言われて日劇ミュージックホールに出かけたそうだ。
僕の場合はただ頭で考えてただけだが彼女は実際に行動に移した所が違う。結果は「?」だったらしいけども。
だいたいくだらない考え方なんだよ。溝口あたりの芸者映画観た方がずっと為になるんじゃなかろうか?一回くらいフランス料理のフルコース食べてそれでヨーロッパ文化の深みを知る?ストリップにエロスは分かるけどそれと彫刻との関係は?
その人個人の美意識や文化論を創作全体の真理のごとくに語るのはやめて欲しいな。(画)
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樹木の太い幹がうねりながら空に伸びている。その地上の豊かな緑をがっしり支えるのが根っこなのだ。そこがいちばん大事な所。清々しさが出ていなくちゃならないのが足元なのだ。今夜は雨の降る中、アトリエに車で出かけて2時間ほど彫って来た。背の高いすらっとした女の人に見える。植物を見ている時に人は人間のことを想っているのだそうな。内的な思考は外界をすっ飛ばして直接石に刻まれる。(K)
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デッサンなどで最初に教わったのは、間違った線を直そうとすっかり消すと、又同じ間違いを繰り返してしまうから間違った線をそのままにしてそうではない正しい線を引くようにしなさいと。確かにその通り、今でも教える時はそのように僕も言う。さらにこの方法のいい所は間違いを恐れなくなり自由感を持てる事だ。しかしそれにも慣れてしまうと、謂わば問題解決の先送りになり自由度は裏腹な怠惰に流れてしまう。
常に生き生きとした表情を生み出しうるような溌剌とした自由な心の状態を保つのは難しい。
銅版画でも先ずは間違った線をしっかり消す。しかし最初のスタート地点に戻れるわけではないんだが。(画)
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光にも波打ち際があることに気が付いた。照らされているものは眩しくて見えない。光の直ぐ傍にあるものが輝いて見えるのだ。そう思うと面白くて、それまで苦しかった垂直彫りがずんずん進んだ。夢中になり過ぎて石の厚みの限界を忘れないように、ときどきノミもハンマーも細いもの軽いものに持ち替える。だんだん核心に近づいているのが意識されると力が自然と湧いて来る。(K)
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イヴィッチは複雑な性格の人に思える。非常に知的で論理的でありながら小児的な欲望を抱きつつ自らの存在を焼き焦がすほどに情熱的でもある。人間の自由と自立を望む新しい型の女性なのだが、愛というものが大きな人生の飛躍をもたらすものとして意識されている。それなのに愛が欲情としてしか彼女には見えないのだ。一言で言えばひどくめんどくさい女だ。
この版画はこの辺が限界点のようだ。(画)
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最近足をよく洗うようになった。指の間や足の裏や踵をゴシゴシ洗っていると、なんだか愛おしくなる。今までこんなに足に注目したことはなかったな。忙しいときなんか、シャワーを浴びながら互いの足を擦り合わせてそれでよしとしていた。靴下だってそうだ。白い靴下を手洗いするとさっぱりとして気持ちが良い。化粧はしなくてもいいから足はよく洗った方がいい。きっといいことがある。スフィアが変わるよ。(K)
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夜二階で仕事をしていると階下から「わっ!」とか「あーっ…」という声が聞こえて来る。僕らが最近ハマってるWot blitzsというネット対戦ゲームをしているのだ。疑似空間での体感でしかないのに冷や汗をかくし痛みさえ感じる。動体視力とか反射神経なんかも鍛えられそうだ。
老いというものが身辺にまとわりつき始めているのを感じると、芸術家に老化なんてないんだよとうそぶいてばかりもいられない。いや正しく老化するならそれもいい、でも正しい老いって何だろう?(画)
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叩いて尖らせる作業が終わって、これから焼き入れをするところだ。
コークスを足して送風をやや強めにして火力を上げる。白熱したノミを水で急速冷却すると鉄の中の炭素がキュンと締まって行儀よく並ぶから硬くなる。そういう図を頭の中にずっと思い描いてこれまでやって来たが、今日ほど上手く焼き入れ出来たことはなかった。ノミの先端をグラインダーで軽くテーパーを付けて削っておくと、切れ味が良くなって長持ちする。
送風を止めてヤカンを炉にかけた。すぐにシュンシュンと沸いて来た。サンドイッチ食べながら休憩。山から引いている水をフイゴの火で沸かして淹れた紅茶は、いつも美味しい。(K)
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銅版用のインクは温めて軟らかくし、彫り溝に入り込み易くする。銅版を置く金属プレートの下に電熱器を入れ、その上に版を置き温める。誰かにもらった焼肉用の電熱器と、昔ぞうけい教室で使っていたキャスター付きの金属製のキャビネットを利用してインク詰め用の台を作った。台を壁に固定したので揺れもなく使用感良好だ。スポットライトをつけたので版面も見易い。
手前は反射板をつけた仕事机。ルーペもある。
他にも専用のプレス機やら紙を湿すことやら…特有の細かいセッティングの必要を、煩わしさと感じるよりもこの仕事の面白いところだと思う人でないと銅版はやれないね。(画)
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石の柱に刻んだ雨を正確に真っ直ぐ地上に落とすには曖昧な凹凸を削らねばならず、今日は覚悟を決めて取り掛かった。今までずっと放ってあったのはこれ以上彫り進む自信がなかったのだ。10年の間に石の振動と音で石の反応が分かる様になっていた。一番軽いハンマーで角度と方向を変えながら上から下に向かって彫り進んだ。何もない空間が雨滴を包んで降りてくる。(K)
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ずっと以前のことだ。強い視線に出会った。東欧出身の留学生だったが互いに紹介されて「あなたもペインターだそうですね」と僕の目を真っすぐに見たのだった。射るように真っすぐ、一瞬の瞬きもなしに相まるで相手の頭の芯まで見透そうとしているような目だった。しかし悪びれることなく相手に対するリスペクトがそこにはあった。握手の仕方にもそれは感じられた。正直言うと未だ自分が画家であるという自信さえない頃の僕には恥ずかしいくらいだったが。でもこっちは一瞬で思った「これは本当の美術家の目だな」と。
それ以前も以後もあんな目に出会ったことがない。
今日はその眼差しを思い出して銅版を彫っていた。(画)
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夜の黒い梢の中に月が入っている。闇と光を交互に彫ればいいのだ。シンプルな繰り返しの中にはいつも美しいものが潜んでいる。奇異なものを抑えて削って、寡黙なものを表に引き出す。梢と雲の違いが彫れるようになった。そう思って彫っているとだんだんそうなるというのが本当の技術だろう。(K)
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現時点での完成。口元が微笑んでいるようになったのがいい。
銅版画は始めは何もかもが手探りで、できたものもいいのか悪いのか、机の上でいつ終わるとも言えないようなカリカリを続け、刷ってみればこれが様々に変化する。全く基準のない世界の様に思えた。
考えてみれば、絵だってどこにも基準なんてないのだ。なぜ銅版画だけをそんなに特別視していたのだろう?違和感から脱して今ではこんなに自分に合ってる仕事もないと思えるほど好きになっている。自己のニュアンスに没頭するのにこれほど向いた世界もない。かかる時間と労力に対しての結果はそれに価するかどうか怪しいものだが。
絵画史の中で銅版画は天才が煌めく星空に見える。(画)
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今日は月を彫り起こした。梢の向こうから照らす月だ。
月は雲に虹の輪を作るけれど、木の中でも虹色の光線を出す。そんな光景を一度だけ見たことがある。この家の西の窓から見える小さな尾根の上に虹色に発光するものがあった。もしかしたらUFOかも!と、じっと見つめていたら、梢から出て来たのは月で、すぐに山に沈んだ。
あの尾根のことをうちでは『天使の峰』と呼んでいる。リッヂ状に切り立った細尾根を犬と一緒に突端まで踏破したことがある。崩れやすいので最近は行かないけれど、あれはきっと人工的に作られた地形だ。山の向こう側は砕石用の石を掘っている工場があるからあちこち抉られている。山の表側と裏側の風景が全く違う山なのだ。
秋になって月の軌道がだいぶ高くなって来た。空気も澄んでいる。涼しくて気持ちが良いのでつい遅くまで起きて遊んでいる。良い夏を通った秋はきっと美しいよ。(K)
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晩年のゴヤを彫ろうとして始めたのに途中からレンブラントだと思った理由は忘れてしまったが、老境に入った画家であれば誰でもよかったのかもしれない。なんとなく宗教改革時代のヨーロッパに生きた画家というイメージだ。洗練と野蛮、聖と俗、真理と虚偽の入り混じった暗黒の時代を純粋で高貴な魂はどう生き抜いたのだろうか。
ちょっと平板だ。もっと煌めくようなものが出ればなあ。(画)
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雲の裏側は木になっている。梢を透かして見える月を今夜から彫り始めた。外に出たら正面の山の上に12日の月が煌々と光っていた。秋になって軌道がだいぶ高くなっている。この狭い谷間でも月が山に隠れることなく滑って行く季節になった。
雨を葉の中に留めておいて後でゆっくり滴らせるレインツリー、あれは魅力的なイメージだったのでずいぶん心に残った。大江健三郎の小説だ。女が草や木に重ねられることが多いのは、力がなくても生命力があるからだろう。命を宿すもののしぶとさと優雅さがこの彫刻の裏のテーマだ。(K)
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トワンと散歩していると羽虫が顔の周りに飛んできて鬱陶しい。季節柄あちこちで虫をよく見る。飛んだり這ったり独特の動き方をする。虫は動くが動物ではない。土から生まれ死んだら土に帰り再びそこから生まれる彼らは植物の世界に属しているのだ。
そうなると「私にとって生は不可解だ。それは私が死んだ者たちとこれから生まれる者たちの間にいるからだ」と言ったパウルクレーは虫みたいな人だったのだろう。
今日は描いているこの木に女性の形を見た。人の女というのもきっと植物的なものに違いない。(画)
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雲の動きが活発になると、雲から漏れる光の直線が効いて来る。だいぶ細くなって来たので慎重に彫り進めている。
昨日に続き今日も近くの丸太置き場で大型重機が動き回っていて煩かった。スポンジ製の耳栓をギュウギュウ耳に突っ込んでも聞こえてくる。
外に出て丸太積みの作業をしばし眺めていると、大きなワニのようなアームが空に伸びた。川っぷちから生え出しているでっかい胡桃の枝をバキッと掴んだ。そしてクルリと捻って放り投げた。まるで草をむしるみたいに簡単に一瞬で大枝が無くなった。
小さなフォークリフトなら私も持っている。最近始めた戦車ゲームで言うならtierⅡくらいか。ときどきアトリエ前の野原を走り回って車両点検をする。爪を上げたり下げたりしていると、大きな気持ちにはならずに豊かな気分になる。よく働く驢馬みたいな1トン半。
力には力を使わない。そんなことをしても無駄なんだ。ゆっくり丁寧に降りて来たものを見落とさぬように注視している。(K)
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