雲の必然
雲に光が輪を作る。何も無いところには虹は出ない。情愛の光はそうやって出来て広がるのだ。ほら、証明できた!というような仕事が本来の彫刻なのだ。石に刻んで実証する。(K)
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あるブログ記事に遠近法のことが書かれていた。
二点投影図法でティッシュの箱を描くというもので遠近法の描き方が説明されてあった。間違ってはいないが問題はその図法で描かれたティッシュがビルのように巨大だった事だ。ここに遠近法の機械的理解の錯誤がある。
リアルな空間描写の為に編み出された「遠近法」が求めているものは実に心理的なものであって、だから基準は人の感情の側にあり写真機の如き一点透視の側にはない。この前提条件なしに遠近法を真実だと思い込むのは絵画にとっては非常に有害なのだ。(画)
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いよいよ主題に突入出来ると判断して、今夜彫り直しにかかった。まず目を大きくした。形はすぐに反応した。生き返ったように見えた。頰を削ると、コリッとリンゴのような瑞々しさが宿った。この人は新しい人だ。じっと天を見つめている。「僕に似て来たね」とガハクは言う。(K)
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ジャコメッティの描いては消しまた描くという作業、セザンヌの遅々として進まない筆と画布の表面。それら一連の行為が具体的に何を示すのかやっと最近見えた気がする。要するに彼らは描かれた又は画布上に現れたそのイメージと、描き出そうとしている自己の内部のイメージとの違和感を乗り越えようとしていたのだ。一般の画家からすれば許せるその種の違和感を彼らは許すことができなかった。言い換えれば自己のニュアンスを徹底的に追求したという事。それが彼らの独創性に繋がる。しかし自己のニュアンスを妥協なしに正確に掴むというのが実は至難の業なのだ。(画)
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雲の中から美しい人が現れた。
こういうことがあるから身を清くしておくんだ。悪い小賢しい意識から遠のくことでいつでも美しい形が見えて来た時に対応できるようにしているんだ。10年前にはあり得なかったことだ。技術と意識を用意しながらこの瞬間を待っていた。(K)
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セザンヌが絵の完成の為に数十回もモデルにポーズをさせたという話。画家の表現への誠実さとして好意的に語られてきた。一方職人的で仕事師的立場の人からは絵の保存性への疑問と拙い技巧でしかないものの神話化だとして非難される。
さてどうだろう?
ほぼ完成したように見え、まあこんなものでいいかと手頃な所で筆を置いた作品より、ほんの少しの違和感であってもそれにこだわり追求され遂には未完成に終わった絵の方がしばしば深いものがあるじゃないか。でもある教師がこう言った、手際よく描かれたものが一番いい、何度も描き直された絵には迷いや疲れが表れてしまってよくないよと。
さてどうだろう?
気に入らないものは気に入らない理由があるし、他人から見た絵の良し悪しなどどうでもいいと思えるなら最後まで自分の好きなように描けばいいんだよ。(画)
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話している声が美しいのはいい。鍛えられた声楽の歌声なんかとても敵わない話す声の優しさ、温かさ、艶やかさ。声にはその人の本来の性質が現れているそうだ。
死者を空に引き上げようとしているシーン。月の天使が空の高いところから手を伸ばしているところだ。顔をとても小さく彫ってあったのだが、ぐっと近くに現れているように顔を大きくした。もっと身近に、美しい人を眼前にだ。私が死ぬ時はすぐ傍に来て欲しい。(K)
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ある美術雑誌に日本の現存する画家数人の使用中のパレットの写真が掲載されていた事がある。形状や大きさ、どこにどんな絵具を置くかその種類や数まである程度分かるようになっていた。別の技法書にはヨーロッパ近代の巨匠達の絵具のリストが載っていた。ずいぶん興味深く眺めたものだ。
今でも自分にない色感の絵に出会うとそのパレットの色を是非見たいものだと思う。
画家の自画像には手にするパレットがよく出てくる。それが実際のものを忠実に写したものかどうかは分からないが、顔の表情を始めとする画面全体の事物の中でも特にその画家のスタイルが如実に表れていると思えて仕方がない。(画)
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庭のリンゴが落ち始めた。でも地面にぶつかってどれも傷ついている。すぐに食べるのならいいけれど、だんだん数が増えて来たら困るだろう、どうしようかとガハクと頭をひねって考えた。クッション材を敷くか、ネットを張るか、ブルーシートでもいいかなとか。しかしどれもカッコ悪い。
それで、落ちる前に収穫することにした。実を掴んでそっと捻ってみたら、意外と枝からあっさり外れる。簡単に離れないのはそのままにして、次々と実を揺らして行く。52個も採れた。手のひらにずしっと来る重さ。
風の流れるラインが決まったら、鹿は森の奥へとゆっくり歩き始めた。(K)
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描いた絵の意味を尋ねられて「鳥に歌っている意味を尋ねますか?」と答えたピカソは、自分は歌うように絵を描いているのだと主張している事になる。しかし彼の絵描きとしての一生は、自らのアカデミズムと対立しそれを超えようとし続けたものだ。晩年の子供の落書きのような絵でさえ(反)アカデミズムの匂いを感じる。ボナールを愛好していたジローに、絵というものは男性的なもので行き当たりばったりに制作する女性的なボナールの絵は劣ったものだと言ったという所にも、「鳥のように歌えない」アカデミストの鎧に覆われた精神を感じてしまう。(画)
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女の子の背中のリボンを彫り直した。適当な方向を向いていたのをぴたっと体に付けたのだ。髪の毛もフサフサにした。トワンの尻尾が彼女の腰に触れている。この3人の後ろ姿をもっと美しく彫りたいと思った。あまり目立たない場所にこそ作者の気持ちが宿っているというのは本当だ。楽屋裏の悲しさは、ステージに上がったことがある人なら知っている。一番楽しい場所が何処にあるか分かるのはステージを降りてからなんだ。(K)
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彼は純粋な魂を持った人なのだから異性への恋は純愛なのだ。しかしその恋は今のところ全く無意識なものだ。さらにその対象である女性は未だ幼い形をしている。しかし彼らの間に立つガジュマルの樹は既に大きな花をつけその花は妖艶に咲き誇っている。これをどう解釈すべきか。描きながら考えている。(画)
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この人はすでに死んでいるのではないかと思いながら彫っている。天に引き上げられようとしているのだ。もう次のステージに移ったのだ。
これを彫り始めた10年前はそうではなかった。愛する人の死が怖かったので、たとえ死にそうになっても何とかこの世に踏みとどまって欲しいと思っていた。
死の瞬間、エスコートするふたりの天使が現れて、そっと瞼をめくって彼の瞳を覗き込む。そこに月が映っている。
今日は彼の足元の地面を思い切って削った。(K)
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以前の作品に長い時を経て再び手を入れるきっかけはその絵により様々だ。でも大抵はこいつはうまくいってない所があるとずっと感じていたのには間違いない。しかしその具体的な修正方法が見えたから手をいれるのかというとそうでもない。その解決策が見えないまま、どうしたらいいか分からない長い待機の時を経て、今なら解決策が見えないまでも何とかなるんじゃないかと思えるようになったので始めるのだ。
どうにかなるし、きっともっとよくなると思えるからだ。(画)
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空を砥石で磨いていると、澄んだ空気を作っているようで面白い。緩やかにねじれた面が山の縁に入る辺りは砥石は届かないので、ヤスリに持ち換えて根気よく作業を続けた。気温22℃。音を立てない静かな雨がトタン屋根をゆっくり流れ落ちる。
無くなってしまうと不安になる人には剥奪はない。無くてはならないものが何なのか、無くしてしまっても気がつかないから、そっと埋まったままにしてあるのだ。優しい雨と激しい雨の両方を知っている。(K)
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老人はいやだねぇと老人の僕は事あるごとに思うんだけど、さていつから自分は老人になったのかと改めて考えてみた場合、いつ老いを意識したかをよく覚えていない。髪が薄くなったとか顔のシワが増えたとかそんな時だとは思うが。
社会的な意味では、画家になる事を諦めた時があったと思う。理由は数度の試験に落ちた後、遂に応募資格年齢を越えてしまったからだ。つまり老人になってしまったからだ。でも画家になる事と画家である事は違う次元に属している。一生にわたって画家であり続けるかどうかも分からない。
きっと画家として年齢を重ねた末にしか描けない絵というものがあるに違いない。(画)
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耳が遠くなって、トワンは益々可愛らしくなった。耳で得ていた情報は目で補うようになった。山での散歩も付かず離れず、一人で遠くへは行かない。家の中でもそうだ。私たちが見えなくなると探しにやって来る。
ところがここ数日また耳の調子が良くなったようで、呼べば振り向くようになった。耳というのは聞こえるから動くのだ。トワンの大きな耳がよく動いている時はよく聞こえていて、目が澄んでいるとよく見えているということだ。目を覗き込んだり、呼びかけたり、愛しい気持ちが私たちの中へ入って来た。(K)
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絵の教室に毎週通って来る母娘がいる。小学生の低学年の子は絵を描くのが大好きなのだ。その母親が話してくれた。
「この子にはね、イライラしたり怒りっぽかったりそんな気分の悪い時、そんな時にでも手を動かして絵を描けばいい、それでいい絵が完成したら嬉しくてさっきまでの悪い気分なんかどこかへ飛んで行ってしまうでしょ、だからイライラしながらでもいいからとにかく絵を描きなさいと言ってるんです」
なんかその辺の画家に言ってやりたい言葉ではないか、確かに僕もこのままではいい絵になりそうもないと気持ちが負けそうにな時はとにかく手を動かす。それしかないしそれだけの事だ。(画)
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感情の高ぶりや落ち込みのメカニズムについては脳科学ですっかり解明されているのだろうが、喧嘩は無くならないし鬱病という言葉も巷に溢れている。本当に大事な時にカーッとアドレナリンが分泌されて何も考えずに行動に移せたらいいなと思う。人間だから後ろから撃たれるのが怖い。想像力はいつだってマイナスに働くのだ。体に良いものは美味しいものと決まっていたはずなのだ。いつからか、正しいことは曖昧で、善いことは捻れるようになった。こうなると、誰の言うことも信用できない。それでも好ましいものの匂いを嗅ぎ別けながら鹿は群れから離れて独り歩き出した。(K)
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「絵の描き方」本には「静物画の描き方」「風景画の描き方」「人物画の描き方」果ては「抽象画の描き方」まである。それだけ描き方を求めている人が多いとも言える。確かに絵とは描き方に尽きるのだが、それはそんなに簡単に教えられるものでもないのが事実。
絵を始めた頃、人をどう描いたらいいのかさっぱり分からなかった。今では少し分かっているつもりだが時々それが見えなくなる。しかし筆を止めても何も解決しないというのも分かってる。(画)
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森の縁を風が渡って行く。風は外界に出て、雨に打たれながら広がる。有効な力を与えてくれるものはいつも透明だ。風の模様の窪みのひとつひとつに砥石を当てていると、だんだん石が透き通って少し暗くなる。透明なものは暗いのだ。光を吸い込んでしまうからだ。大理石は透明な鉱物を含んでいるから磨くと反射するし光沢が出るし、暗くもなる。その性質を駆使して風を彫ろうと云う訳だ。(K)
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修正の為に版面を削るのとニードルで線の溝を彫りこむのとどちらに多く時間がかかるか分からない。もとより間違った線を引くなという話なのだが、最初から間違わない色や線を引くのは至難の業だ。僕はとうに諦めている。またそうしようとすると堅くなり自由な解放された線を引く難易度がさらに上がってしまうだろう。むしろ間違ってもすぐに修正可能な画材として油絵も銅版画もあると考えている。
顔はだいぶ良くなったと思う。髪の表情が難しくなってしまった。(画)
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昨夜は月蝕だったそうだけど、あの台風の雨と風では、そんな美しい光景が雲の上で繰り広げられているとはとても思えなかった。月は地球の影を飲み込む度にその輝きに磨きをかけている。影もほんのり明るいのは、互いに反射し合う光が影の中にもあるからだ。
山のへりが光っている。空は澄み切ってどこまでも明るい。後ろから照らされている人は幸せだ。(K)
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台風接近とかで風が雨と一緒に時折激しく吹きつける。いつもは閉めない二階の雨戸を閉めた。子供の頃大人達が伊勢湾台風が恐ろしかったとよく話していた。子供の僕には台風で学校が休みで嬉しかったり、停電でロウソクの火が楽しかったり、いつもと違う内外の雰囲気にワクワクしたりしていた。恐怖は感じなかった。家が失くなるとか食べ物が乏しくなるとか不自由な生活とかそういう事を言うが、真実はその先にある死が怖いのだ。死の先触れとしての障害が怖いのだ。
晩年の孤独の中で誰にも見せる事なく壁に描いたというゴヤを思って作った銅版画なのに出来上がっていくに従いなぜかレンブラントと名付けていた。しかもレンブラントがゴヤと同じように晩年が孤独だったかどうか僕はよく知らないのだ。
孤独な老人の恐れるものは自身の死だったろうか?(画)
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昨日の夜から月の人の顔が変わって来た。足先を彫り直して一週間、やっと頭までやって来た。ひとつの統一体として完成した人格が出来上がるまで、何度も壊しては作り、作っては壊しの繰り返しだったが、止めようとしなかったからここまでやって来れた。月も変わった。(K)
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ある裸婦画に付いていた解説文にそんな言葉があった。誰のどの絵についてかその文章を書いたのが誰かも忘れたが、度々思い出すからそれを読んだ時強い印象を持ったのは確かだ。一見詩的な空間性を感じさせるが、この意味ほんとうに分かるだろうか?
とにかく絵描きはあゝいう言葉とは無縁な世界に生きている。(画)
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流れは二つに分かれた。一つは激流となって山を押し出すほどの勢いを持っている。もう一つは鹿に命を注ぐ甘い水だ。冷たく強いものと暖かく柔らかいものが、同じ泉から湧き出ている。鹿を動かすのは甘い水の方だ。野生のしなやかさを失わずに生き続けるには、本能と呼ばれる直覚が必要だ。(K)
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絵を初めて売ったのは高校の頃だった。値段は?指導教師のアドバイスに従って絵具代とキャンバス代を足したものにした。それから10年後くらいに現れた2度目の買手からはもっと高くして欲しいと言われた。見栄を張りたいからだそうだ。その次の買手には思いっきり高額にしたら値切られて半額しか払ってもらえなかった。
思うに絵描き自身が絵の値段に相場を求めるのはよくない。それ相応の決まった値段=定価があると思いたい気持ちは分からなくもない。自尊心、欲得、責任…色々な事から気弱な画家は免れたい。しかしそんな事は実に買手側の問題だ。政治や経済の問題はその筋の人たちに任せておけばいいのだ。
人物とその周辺が少し固まってきた。(画)
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地面に触れている位置がぴったりと決まったら、腰まですーっと立ち昇るスフィアが出せるだろう。今日は思い切って右足を彫り直した。山にそっと降り立ったような柔らかさと、すっと空に引き上げられる瞬間の重力から解放された軽やかさを出したい。(K)
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水平線を基準とした遠近法に長い間拘束されていた。最近ようやくその水平線を意識しないで描けるようになった気がする。遠近法は絵の一つの要素でしかない。空間のリアルな描写にとって大きな道具になり得るが、絶対的なものではない。逆手に取る方法もあれば無視しても構わない。
人物をだいぶ小さくした。(画)
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