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2017年6月

地球の影

地球の影を彫りながら考えていた。自分をそこに反映したいという欲求は月蝕かなと。影に存在はないのに存在を隠す影。月を遮る雲の間からこぼれる光は美しい。最後に思ったのはペテルギウスのような星のことだ。星の光がここまでまっすぐ届く間に地球の影に入ったら、やっぱり見えないんだろうなと。いつかまた月蝕がある時には影に入る星を観察したいのだが、月のそばにある星は見えないんだよね。金星くらいでかくないと。影を彫るのは月を美しく見せるためだ。(K)

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夜の鳥

「リンゴの木」はちょっと寝かせておいて、もう一枚小さな版を手がけることにした。
直彫り銅版にはエングレービングだけでなくドライポイント、メゾチントなどがある。どの版形式も特徴的だがドライポイントはその技術の容易さと反対に非常に複雑なニュアンスが出る。感情的な線と調子を作り出せる。この技術を死ぬまでにはものにしたい。(画)
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風の馬

彼が小枝を一振りすると風の馬は走り出す。ケルビムの男の自転車の左斜め上空を飛んでいる。

今夜は新しいイメージが湧きて来たので楽しかった。ヤスリでベレー帽の形を削り出していると浮かんで来たのだ。グラインダーやエアーチズルで作業していたのでは絶対出せない優しい線がある。夜の時間にも、昼のざわめきの中でも、いつだって面白く仕事ができるようになった。楽しいと思うようになった。

今日の昼間『月の人』の脚に砥石を当てている時、ふとその手を見た。他人の手を眺めているような気持ちがした。よく動く何も考えていないきれいな手だった。そういう風に見えたのは初めてだ。(K)

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りんごの木の絵なら大丈夫

どうもうまく絵ができないよと言ったら妻に「リンゴの絵なら大丈夫」と太鼓判を押された。だからたぶん大丈夫なんだろう。銅版画のインクの拭き取り、少し面白くなって来た。
インクの拭き取りは油絵でいえば筆の使い方のようなものだと思えた。(画)
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後ろ姿

魅力ある彫刻の裏側に回ってみると、ほんとうに美しいものはどこから来るのかが分かる。法隆寺の百済観音の後ろに回って長いこと見つめていたのは、学生の時の古美術研究旅行でのこと。裏側には大切なものが潜んでいる。意図なしの純粋造形だ。

今夜はひたすらヤスリで二人の頭部の後ろ側を削り出していた。もうハンマーの衝撃には耐えられない細さになったから、ヤスリで削り出した方が早いのだ。(K)

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最後に気づく

絵でも版画でもそのでき具合に一喜一憂したりする事が以前よりずっと少なくなってどちらかと言えば毎日坦々と仕事が進んで行く。この絵を描こうと思った最初の頃の新鮮な気持ちや畏れは今はないかもしれない。というよりも元々そんなものがあっただろうか?今までは初心を忘れないように又は常にそこへ帰らなければと考えて来た。しかし今日思った、この絵を描こうとした最初の動機、衝動の発見こそ仕事の目的ではないか、きっと最後にそれを発見すればいいのではないかと。(画)
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風の車輪

脚と手の間の狭い空間を今日は深くえぐってみた。すると、風が抜けて、光が通った。曖昧だった女の手の位置がこれでやっと決まった。風を巻き起こす車輪をコントロールする様に上からぐっと抑えつけていたのだ。車輪は地面を削りながら勢いよく山を登って行く。白煙に包まれて山がぼおっと浮き上がる。車輪の巻き起こす風に乗って彼女は離陸した。(K)

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画家はカッコイイ

左半分がドライポイントの下書き、右半分がビュランで彫った線。
遅々として進まないエングレービングという作業を続けているといつも思い出すのは、ウィリアムブレイクが死の病床で「ヨブ」のシリーズを彫り上げたという逸話だ。ベッドで半身を起こして彫ったというのにあの表現力の強さと完成度の高さだ。時の権威に反抗し富から遠く孤高に独創的な思想と芸術を作り上げたブレイク。何てカッコイイんだろう。
全てのホンモノの芸術家はとにかくカッコイイんだよ。僕が画家になりたいと思ったのは画家ってカッコイイと思ったからなんだよ。ダサい画家ってダメなんだよ。権威や富や名声に汲汲とする画家なんてどうしようもなくかっこ悪いんだよ。(画)
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夏至から夏至まで

『月の人たち』を彫り始めてちょうど1年経った。夏至から夏至までだ。今日は男の腰のラインを調整していた。後方の空間に風の渦のケルビムの輪を彫ろうと思い立ったのは良かった。空から滴る流れを山にぶつけることにしたのも面白いアイデアだった。あとは月の光がくまなく広がっている様に、海の底まで照らしている様に彫りたい。まだまだ続く。ずっと彫っていたいものがあるというのは幸せだ。いつまでもこうやって生きて行くことが出来れば最高だ。ゆっくりと進もう。夏の太陽と仲良しにならなければ。(K)

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作品の値段

試し刷りの段階。下描きのドライポイントの線をビュランで彫っていく。適当に引かれた線を適当に彫るのにも拘らず時間と集中力が必要だ。始めは非常に面倒くさく感じる。
さてこの版画ができたらいくらと値段をつけるか?ジャコメッティが自身が描いたデッサンの売上金の法外さに憤慨したが、結局その代金を受け取ったという話を矢内原伊作の本で読んだ。割と好きな話だ。
作品の価値なんてものこそ世間的にあやふやなものはない。ましてそれが経済性に組み込まれるなんて無意味なものはないじゃないか。よしこれからは自作に勝手に法外な値段をつけてやろう。
でも売れないからそう思うんだろうな、売れ始めたらやっぱり正当性を考えてしまうに違いない。どうか売れませんようにw(画)
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善い人の匂い

善い人の傍にいると良い匂いがする。焼き立ての香ばしいパンの匂いだ。小麦色のこんがりした色さえ目に浮かぶ。ケルビム一家の男を彫りながら思い浮かべているのは、そういう人たちだ。

毎回パン焼きをやっているガハクのレポートによれば、酵母を加えると捏ねている生地が急に硬くなるのだそうな。生きているものの反発力や弾力が抵抗感となって直に手に伝わり感じとられるのだろう。バターを入れるとしっとり柔らかくなり、塩を入れると甘味が増す。今までに塩を入れ忘れたことが数回あって、何とも間の抜けたぼんやりした味だった。塩は大事だ。

「塩は良いものである。もし塩に塩味がなければあなたたちは何によって塩味を付けるのか?」というシンプルな問いがある。塩が表象するのは真理だ。塩のない人とある人をどうやって見分けるか?いっしょに仕事するなら、共に生きて行くならぜひとも塩味がある人と組みたい。(K)

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銅版画始めました

最近は木版画ばかりで銅版は久しぶりだ。だから版面を磨く手間がかかるというのを忘れていた。木炭で磨きペーパーで徐々に番数を上げ最後にピカールで磨く。完璧にしたければピカールの前にバニッシャーという金属棒で磨いておく。そうすると鏡のようになる。古代の鏡はこれだった。
そういう手間を忘れていた。なんでもすぐ忘れる。ある人のブログにあった「人々は記憶がないから何度でも間違うのだ」は僕のための言葉だな。でもその記憶力不足のおかげで何度でも発見したという思いが生まれその度に喜んだりしてるのかもしれないな。他人から見たらデジャブとしか見えないとしてもさ。(画)
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夏の始まり

今日は空気が乾いていて気持ちが良いので早く出かけた。午前中には彫り始めていた。温度計を見たらまだ26度だったが、だんだん気温は上がっていたのだろう。トワンの耳の位置や目の辺りの小さな範囲をしつこく探求していたら、少し頭がぼおっとなって来たので紅茶を入れて一休み。

今日はトワンの右目にいちばん時間をかけた。頭頂から背中にかけてのライン、前脚もかなり細くした。老いてやっと甘えるようになった犬のやさしい姿、素直な形をいつまでも彫っていたい。愛するものを彫っている時がいちばん幸せだ。

少し熱中症になりかかったらしい。家に帰って夕暮れの涼しい沢風に吹かれていたら元気が戻った。今日から夏が始まったようだ。ここを上手に乗り越えられたら、この夏は素晴らしく楽しいものになるはずだ。リンゴがあんなに実っているのだから。(K)

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待ち受ける

もう少しスンナリいくかと思ったが苦労している。こういう時は何を描きたかったを思い出すのではなく起こることを待ち受けるように描くしかない。いつだって放り出せるんだし。(画)
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美は闘う

鹿と男はすぐ横にいながらも異空間にいるようにしたいのに、互いの光が反射して輪郭線が白く光って甘くなる。ここ2日ほど覚悟を決めて側面の精細な面取りを始めた。へその位置をわずかに上げた。膝と足首もえぐった。太ももの内側の影が重要なのだと気がついた。最後の重大な作業は、背景に食い込むほどに輪郭線を廓然と彫ること。写真やモデルを見ることはしない。夜寝る前にシャワーを浴びるとき自分の脚や腰を見下ろして眺めて少し考えるくらいのことだ。ヒントが与えられることはある。でも、ほんとうの形は彫っている時に教えられる。こうではない、こうじゃないと、何度もやり直しているうちに、はっきりと見えてくる形があって、そういう形は完全なものに近づいているという確信と喜びを伴っている。休まずに一気に彫る。ぜんぜん疲れない。楽しいんだ。ほんとうの形が分かるということは素敵なことなのだ。(K)

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堅い線

ゴッホの友人だったエミールベルナールは「ものを掴むように描こうとして硬くなっている」とゴッホのデッサンを批判している。またセザンヌの絵画理論を後世に伝えたのも彼だった。自然物の構造を幾何形体的に再構築して表すといういわゆる「セザンヌ理論」だ。そのどちらも絵の本質を技術的な問題だけに限定してしまうという大きな偏見から生まれている。
ゴッホの線は、ものを前にした時に感じた強烈な感性を独創的に表したものだし、セザンヌもまた、自然から受ける澄み切った感動を情感に流れないように捉えようとした彼独特の方法論だったのだ。
アマリリスを描きながらゴッホの強烈なひまわりの線を思い出していた。(画)
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月下の鹿

周りのものと一切関係なく何かに魅入られたように歩み去っていく鹿。孤独な鹿の形が熟成するまでしばらく時間がかかった。この鹿にだけは違う彫り方をしようと思った。ずっと考えていると必ずイメージは浮かび上がってくるものだ。

最古代のエジプトの壁面に刻まれた太陽のレリーフのあのくっきりした輪郭線。あの強い陰影を使おう。出来るだけ薄肉彫りでやることにした。

月に照らされて進んで行く彼の脚は細くしなやかで強靭だ。(K)

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描く体力

「絵画教室」という本に画家の心得が書いてある。夜は早く寝て規則的な生活が第一。激しい運動は避け、朝晩道具を使わない軽い体操や散歩などをして体調を整える。禁酒。コーヒーとタバコは脳を活性化させるから無理に止すことはない。ちょっとした心配事でも制作の障害になる、この点で家族の協力ほど大いなる感謝に値するものはない。etc. (苦笑)
体力が精神を支え、精神力が体を作る。それは間違いない。
昔描いたアマリリスを潰した。ここにもう一度アマリリスを生みだす。(画)
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マリアの羽

マリアの背中には小さな可愛い羽がある。でもあれはまだリボン。どっちにでも見えるように彫ったのだ。彼女はまだ幼くて転んでばかりいるのでいつもオーバーロールかつなぎの服を着せられている。ドレスに結ぶ大きなリボンをお母さんが縫い付けてくれたのだ。

いつかひとりで出かける日が来るだろう。大人になれば背中の羽が勝手に動き出してじっとしてはいられない。それでも大丈夫。マリアの羽には大きな目が付いていて、後ろから近いて来る者を見極める。その視力が彼女を守ってくれるだろう。(K)
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イタドリ

トワンと散歩しながら木を見たり草や花を見たり。そういうものをどう絵にするかをいつも考えてしまうのは良いことか悪いことか。今日もイタドリを見ると立ち止まり、観察したくなるのをこらえていた。しげしげと見ないようにしてチラッと見る。あまり知ってもいけない。だから目を背けつつイタドリを観察する。絵はここまで来た。(画)
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間違いを正し続ける

おかしいなとは思いながらもそのままにしていたのはあの頃はうまく彫れなかったからだけど、やっぱり面倒臭いと思ったからだろう。せっかくここまで来たのに引き返すのは苦しかったんだろう。でも今は違う。彫り直す事が楽しい。ぐんと良くなるし軽やかになる。ほんとうに美しい形というものがあることが分かったからだ。(K)

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絵を描く距離

絵を描く時に適正な距離はどれくらいでしょうか、と質問された事がある。
画布にくっついて描き続けていると筆の先しか見ず、その効果が画面全体にどう影響しているかが見えなくなっていたりする。大きな画面でなくとも気になるものだ。だからよく画家は後ろに下がる。そういう習慣がいつの間にかできてしまう。広いアトリエを好む画家が多いのは自作を多く並べて鑑賞したいからでもないようだ。
しかし後ろに下がると言っても限度がありそうだ。そういえば適正な距離の目安は画面の対角線の長さの○倍とかいうのをどっかで読んだ。
本当は適正な距離なんてものはない。好きな距離で描けばいい。小さな絵を広いアトリエで描くのは背中がすーすーする。大きなサイズの絵を狭いアトリエで描くのは絵の中に入ったみたいで楽しい。アトリエの適正な(好みの)大きさの方が問題かな。(画)
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反発と抵抗の躍動

アガノ村の歯医者さんによれば、地面を踏みつけた時に受ける衝撃に反発し耐えることで骨は丈夫になるのだそうだ。それと同様に、歯も上下の歯が揃っていて互いにぐっと噛みしめることによって、顎と骨と歯はその構造と強度を十分に発揮し維持するのだとおっしゃる。

男の形がそれらしく出来て、女のやわらかな線が出ればそれでお終いという訳にはいかない。人が立っていて、踊っていて、跳ねているということ自体が奇蹟のような美しさを持っている。形の中にある緊張や喜び、抵抗と躍動を何とか露わにしたいのだ。(K)

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絵の空間

絵では空間とか奥行きという言葉は、始めは三次元的な再現性を言うのだが、それにとどまらず心理的な効果や共感をも含み得る。
この絵、何となくアンリルソーに似てきたようだ。どうしたらいいだろう?(画)
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水底の月

地球の影が月を隠すのが月蝕。太陽と地球の間に月が来ると日蝕。ふたつが重なるということはどういうことかと考えながら彫っていた。どちらでもいいように思えても来た。今は夜なのか、昼なのか?

裸の人たちが住む天界では夜も昼もないらしい。人に見られて困ることもないし、隠すという習慣も彼らにはないのだ。だからそこはいつも明るく清々しい霊気が満ちている。

水底に沈んで重なった二つの輪が少しずれると光を発する。水に映った月をセクシーで象徴的に彫った。(K)

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赤い城への道

キャンバスの裏に制作年度が書いてある。2002年。15年前のこの絵に手を入れた。ここ数日の仕事で童話的な風景が少しリアル度を増したと思う。でもこのモチーフの意味は自分でもよく分からない。正確に言うと忘れてしまった。そんな絵が何枚もアトリエにあるが、それならはっきりと意味を自覚している絵とどう違うかと問われれば明確な答えはない。
かと言って絵を描く為の動機付けに過ぎないとも言い切れないんだよな。(画)
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自由人

古代アテネでは自由人という階級があったそうな。政治に関わることは出来ないので投票権は無く、しかし労働を強いられることの無い身分で、教育や研究や創作に携わることで奴隷から解放された人たち。貴族、市民、奴隷のどの階級にも所属していないということだ。何も持っていないということだ。

ほんとうに美しいものは自分が美しいということを知らない。だから守ってやらねば殺される。失くなってしまう。

昨日も今日も大きな風が吹いて空全体が動いていた。艶やかで澄んだ美しい青だった。(K)

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風景の描き方

予備校生の頃、課題で学校の近くの公園に風景を描きに行った。ほとんど室内で静物や人物を描いていて野外で油絵を描くのは2度目くらいのものだった。池の端にイーゼルを立て終日描いた。思うように描けない、どう描いていいか分からない、次の日も同じように出かけそれが3日続いた。苦しいばかりで少しも楽しくなかった。今の自分がそこにいたらきっとこう助言してやるだろう、風景なんかそんなに見なくていいんだ、それより自分の絵をもっとよく見ろって。(画)
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やわらかな山

背景をやわらかな面で包めば女はもっと強く立ち上がってくるはずだ。車輪をブンブン回せばまわりの空気が動いて力感が出るのじゃないだろうか。影を深くすることよりも、面の傾斜の方向をはっきりさせると良さそうだ。右か左か。上か下か。どんなに捻れていてもそこにある面はある方向性を持っている。曖昧なままだから宙ぶらりんなのだ。見えたことをひとつひとつ丁寧に実行していたら、山がゆるやかにうねり始めた。ピラミッドのように硬い岩ではなくそこはトワンの踏む山だ。女が降り立つピークもやわらかな土にしよう。(K)

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林檎の木

今年の妻の注目作物の中で何と言っても一番はリンゴだ。今日はリンゴの実を包む紙袋を自製していた。袋がけは未だ当分先の事のようで気が早い話だし、今のところピンポン球くらいの大きさの実には不釣り合いな大きな袋だ。しかし去年に比べても今の時期ついている実の多さは特筆に価する。だからこれをかけられた木はきっとずいぶん目立つよ。この村にリンゴの木はおそらく一本もないし、一瞬でリンゴと判断できる人も少ないだろう。周囲の反応が見ものだ。木の実際の成長を見るにつけこの絵もだいぶ変わってきた。(画)
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