« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »

2017年3月

補色

ある色を見た時、人の網膜にはその色の補色が現れるそうだ。昔から補色を上手く使える人は綺麗な色の絵を描くという偏見が僕にはある。例えば緑と赤だけを使ったムンクの素敵な油絵があるし、どっちが先かは知らないが彼は版画作品でもその2色を特殊に混ぜ合わせて刷ったのがあった。版画といえば単色刷りでよく使う黒も紙の白とは補色関係になる訳だろう。
今マイブームなのはヴィリジャン(緑)とカドミウム(赤)の補色混合でできる灰色を使うことだ。しかし「薬草を採る中国人」難しくなってしまった。(画)
Dscf7006

|

末席に着く

豪雨を降らす雲はさぞ重いだろうに空に浮いている。黒い雲から滝のように落ちる雨の出だしは、雲の塊から一旦ブツッと切れて、それから突然ダーッと落ちた方がいいなと、そう思い付いたからガンガン彫った。雲の裏側の暗がりをひたすらえぐった。しばらく彫って少し離れて眺めたら、横に広がる森の膨らみとの違いが出ていた。やっと最古のエジプトの壁面レリーフを彫った人やミケランジェロもいる宴席の末席に着くことができた。幸せな夜である。(K)

Dscf6998

|

薬草を採る中国人

森を歩くのが習慣になっていた頃、蔦が絡んでいる木を見ると苦しそうに思え、見れば取ってやったりしていた。後には鎌や鋸まで持って山に入った。少しずつでも蔦を伐採し続けていると森が明るくなっていくから愉快でもあった。しかし誰に頼まれた訳でもなく暇人の所業の最たるものだった。
今思えば掃除の爽快さだけでなく何かを探そうとしていたのかもしれない。絵に加筆。狙いがまだはっきりしない。明日も続けよう。(画)
Dscf6994

|

右にある海

今夜はレリーフの右側の海を彫っていた。最初に彫り出した頃は、海の深さを三つの階層に分けて霊的な暗黒を表現しようとしていたのだったが、今はもうそんなことよりも海の美しい透明感や水の動きの強い量感を出したいと思っているだけだ。意味よりも美の法則を知りたいと思う様になった。

携帯の時計を見たら9時を過ぎていたので道具を置いて少し離れて今彫ったところを眺めていたら、太古の海のことが思い浮かんだ。原初の生命体が海で生まれて陸に上がるまでの膨大な時間が表象するものについて考えた。意識の変革が容易でない事を示している。少しずつのことが形になるまでずっと見つめているものがあることを意識できるか否かにかかっている。(K)

Dscf6981

|

風景

フツウの風景画が描けないのが不満で、そういう絵を描こうとしていた事を忘れてしまっていた。あれから描ける様になったとも思えないのにその思い自体が今は消えている。どうしてかな?いい加減なものだ。
「白い旗」の右側部分。全体に木や建物を小さくした。まだ大きい気もする。(画)
Dscf6976

|

集める器

やっと山の稜線から離れて浮き上がった。光と熱を集めながらゆっくり移動している。そこから流れ落ちる甘い蜜はダイレクトに流入する場所を探している。楽しいことやりたいことがぴょんと浮かぶのは、ハート形した飛行物体が真上に飛来しているからなんだな。

庭のリンゴの芽から小さな葉がぴらぴらと覗いている。この庭にも春が来た。(K)

Dscf6967

|

結果が目的を表す

絵という「結果」をどう評価したらいいかが分からない為に人はその絵が描かれた「目的」を知ろうとする。まるでその「目的」が良ければ「結果」である絵も良いだろうとしたいみたいだ。だが絵の目的は画家のイメージ(=思い)でしかないし、結果はその形象化に過ぎない。そしてイメージの良し悪しは結果で見るしかない。そこに「思い」への情状酌量の余地はない。画家はその絵で判断される。それだけの事だしそれでいいのだ。
「白い旗」少しずつ描き直している。(画)
Dscf6960

|

虹色の木

森の中にりんごの木が生えている。ひとつだけじゃ実が付かないというので、2本寄り添って生えている。だんだん茂って膨らんで梢が絡み合ってふたつの木はひとつになった。月が丸くなる夜リンゴの木が光り出す。虹色の光がふわふわ揺れている。

美しくて面白い形は、いいスフィアに包まれた夜に降りて来る。(K)

Dscf6959

|

怯え

ルドンの「恐怖」という銅版画がずっと頭にこびりついている。実際に見たとは思えない風景なのに(だからなのか)相当なリアリティで迫ってくる。気味の悪さがいつまでも残る。
「白い旗」でもそういう感じを自分なりに出せないかと思うのだが…このままではダメだ。人物の部分を描きなおそうとしている。あまり説明しようとしない方がよさそうだ。(画)
Dscf6951

|

超空間

ピアノのすぐ近くまで水が上がって来た。激流が水位を押し上げたのだ。月は静かに映っている。山のこっち側は霊的な海だから静かなのだ。天的な海は荒々しく活気だってそこから昇る水蒸気が森を潤しているのだけれど、まだ忙しくて山の向こう側には行けない。蝶も彫り直したら右側の海をもっと深くする。そうしたら海が繋がる。(K)

Dscf6943

|

首吊りの家

セザンヌに「首吊りの家」と題された絵がある。クールベ風の厚塗りの絵肌も特徴的だが、絵にその不幸な出来事や暗いイメージのようなものが出ていないだけに、その題に若き画家の野心が表れているように思える。セザンヌという人はその伝記からするとかなり戦略的で処世術にも長けていて、要するに凡俗としか言いようのない所がある。そういう人があゝいう絵を描くのだから…芸術というのは一筋縄でくくれない不思議な世界だ。
「白い旗」の修正。もっと良くなると思う。(画)
Dscf6933

|

落下速度

流れを球体のカーブに沿わせることは止めて完全に落下に任せることにしたら奥行きが出た。海の中に広がる水の色も見えて来た。今夜はここまで。ストーブに焚べた小枝がちょうど燃え尽きたところで道具を置いて、祈る二人の像はまた明日だ。

今日は人に会った。古い燃え滓のような記憶が蒸し返されるのを警戒しながら話をした。子供もあり未来への不安もあるだろうに静かに落ち着いた風情の人に有効な助言は何も用意できないまま別れた。忘れてもよいこと、離れてよいことを再確認した。ほんとうのことを話してあげても良いのだけれど、それは過酷だろう。(K)

Dscf6931

|

光と色

色の問題にぶつかった最初の頃、色を潰すことを覚えた。「何色?」か分からないほどに混ぜ合わせた絵具を使って画面を埋めれば、色はそれぞれの固有の鮮度を失ってニュアンスだけになっていく。色が消えてくると色に変わって出てくるのは光だった。だから色を捨てて光を得たわけだ。この方法は現実感を出しやすい。しかし色を失った。
色で描く為には現実空間を絵の空間に置き換えねばならない。光を無視する又は色が持つ内部的な光を見いださねばならない。(画)
Dscf6923

|

意識の灌漑事業

水の中の月と空の月とが呼応する位置をじりじりと探していたが、やっと決まった。海の底と天頂だ。暗い海の中で光る月。月が良くなったので、海に注ぎ込む水の流れも彫り直し始めた。山にぶつかって弾けて方向を変えて『とおめいなまるい球』の外まで溢れ出した。海の色を変えるほどの勢いだ。(K)

Dscf6918

|

造形は考える

予め意味があるものを描こうとするほど難しく感じることはない。その意味が特に表現の主な目的だとしたら尚更だ。意味を一旦捨て意識を空にしてむしろ筆の先から出てくる色や形を観察する方がいい。造形の中で考える方がいい。本当に必要な意味であれば造形的にも出てくるはずだ。いやそうでなければそれはダメな絵だ。そんな話を今日は二人でしたのだった。(画)
Dscf6913

|

水の中の月

水の中の月を空に浮かぶ月の真下に動かしたら、水の流れも変えたくなった。なかなかの大工事だ。灌漑事業に熱中したファウストのことを思い出しながら彫っていた。バルザックの『村の司祭』のヒロインのヴェロニックも不毛の荒れ地に水を引く事業に没頭するのだったな。バルザックはゲーテを意識して最後のシーンを作ったに違いない。灌漑の内意は真実が人を潤すということだろうか。(K)

Dscf6902

|

画面を埋める

絨毯や壁紙の模様を描くのにどんな意味があるかなどと一切考えていない。以前から装飾性という事に興味を持ってはいたがそういう意味でもなさそうな気がする。たぶん画面を自己の痕跡で埋めたいという根深い欲求があるだと思う。だから身振りの痕跡でもいいに違いない。絵の中には何もない「空き」を持ち味とする絵もあるし高度な空間性がそこにはある事も知っているがそういう絵は描けそうもない。僕は常に何かで埋めたいのだ。(画)
Dscf6898

|

木を見つめる

木に興味を持つようになったのはこのアガノ村に来てからだ。山で見て来たばかりの木を図鑑を開いて探すのだが、なかなか特定するのは難しい。それでもだんだん知っている木が増えて来た。これかあれかとはっきりしないままだった木も、秋に実を付けたのを見つけてやっとこれだと確信する。樹皮だけで見分けることができる人を尊敬する。

『祈るふたり』この木はオリーブのつもりで彫ったのだったか?もう10年以上も前に彫ったので忘れてしまった。今夜も最後に1時間ほど砥石をかけた。ゆっくり仕上げていこう。(K)

Dscf6885

|

色を殺す

強すぎる色を抑えるという意味でいつの間にか当たり前のように言っている。背景の黄色が余りにも鮮やかすぎてそのままでは「飛んで」しまいそうなので少し「殺し」た方がいいな、とか。ちょっときわどい言い方かもしれない。
やっと母像が決まってきた。今までの同一主題の中では最もしっくりくる形になったと思う。ところで殺すという言葉で親殺しを連想してしまった。母は愛とともに憎悪を植え付け、保護とともに恐怖を植え付ける。主題を描き切るとは「殺す」ということか?(画)
Dscf6882

|

足の裏の記憶

今夜は山を彫り直しながら、昔登った山のことを思い出していた。千丈岳のカール、甲斐駒ヶ岳のピーク、燕岳の巨岩、足の裏に歩いた時の実感が残っている。いっぱい登った中で今夜思い出したのはこの三つ。山の形が刻まれるのは足の裏なんだな。

山のメタファーは善。海が真理。言葉の海に善への意志がなければ嘘ばっかりまかり通る。だからドボ〜ンと海に山が滑り込むようなスロープを作りたくなった。山の両脇でぐんぐん回っている車輪の回転数を上げた。

新しい安全靴は幅広で安定感があり靴底が厚くてたいへん気に入っている。(K)

Dscf6875

|

新色

油絵具をするのは時間や手間がかかる。さらに顔料には其々独特のクセのようなものもあるので、どうしても必要な色(30色くらい)だけ、そして昔からある素性の確かな色だけしか作る気がしない。ところが最近どういう訳か新しい色に興味が湧いてきた。絵の上でどんな反応をするのかみてみたい、今まで使ったことのない色だけでなく絵具屋さんの「新色」も試してみたい気がして来た。今日はいくつかそういう色を練ってみた。コバルトターコイズというこの色もその一つだ。(画)
Dscf6870

|

深く碧く澄んだ水

形の意味付けやストーリーから入ると碌なことがない。途中でぴょんと思いついたことなので彫り出してみたが行き詰まってしまった。しかしそういう時が実はクライマックスで、きっとその次にいいことが待っている。言葉ではなく造形自体が語り始める。水の青が白い大理石で表現できるんだ。ケルビムの渦巻きと風のラインの彫り痕がたまたま交錯して現れた文様に救われた。美しいものは自分の力だけでは生み出せない。(K)

Dscf6859

|

三つの顔

複数の顔を一枚の絵の中に描くのは面白い。とても難しいと感じた時期もあったが今ではそれほど困難さを感じない。絵の中での要素として色や形の調和とかそこに描かれる意味とかいう妙な下心が顔を出さなければ自由に楽しめる。というよりもそういう迷いを振り払えるかどうかの実験だとさえ思えてくる。絵を見る人が勝手に想像して見るのに任せておく。(画)
Dscf6854

|

ふたりの間にいつもいる

ふたりの間の空間に何か欲しくて彫ったのがこの子だ。何も考えずにさっと彫った。柔らかな情愛が小さな体から発散している。この輝きは磨くと消えてしまうだろうからこのまま放っておく。ザラザラとした平ノミの痕が美しい。無意識の領域から出て来た形は私も知らない世界のものだ。(K)

Dscf6849

|

見つめる目

人に見られるのも人の顔をじっと見るのも実は苦手な方だ。しかし日常の中で人の顔を見ずに済ますことは様々な理由で難しい。そして人の顔を凝視するのは多くの場合その人の目を見る為だ。人の心理が目に出ているのを誰もが直観で知っている。絵の場合でも同じことが起こっている。人物像の目を描くのをずっと避けてきた。正確に言えば視線らしきものさえあればいいとだけ思っていた。気づくと最近の絵の中の人物は明らかにこちらを見ている。どうやらやっとまっすぐ相手を見ることができるようになってきたらしい。(画)
Dscf6846

| | コメント (0) | トラックバック (0)

流れを変えるもの

まっすぐ端まで進んだ風が突然向きを変えた。たまたまそこに浮かんでいた浮遊物体にぶつかって、クイッと向きを変え海に向かって吹き下ろす。ふらふらと目的もなく浮かんでいるように見えるものにも役目があったのかと、彫りながら理解した。(K)

Dscf6840

|

猫が前を向いた

ずっと後ろ姿で描き続けたが前向きにしたら空間に奥行きが出た。それにこの方が形を遊ぶ事がずっと容易だ。長い時間一枚の絵を描き続けていると絵が季節の影響を受けてしまう。昔はそこに何か不誠実な匂いを感じたものだが、今ではいい事だと思っている。長い時間に耐えられないものは大した作品ではないだろう。(画)
Dscf6826

|

さいごにいつも30分磨く

今夜も帰り際に30分だけ『ふたりの祈り』を磨いた。ぼんやりした甘いシルエットだから彫り直そうかと思っていたけれど、砥石を当てながら眺めていたらそんなに否定することもないなと思えて来た。腕のやわらかな袖の膨らみが綺麗だ。どんどん磨いているうちに、きっと新しいアイデアが浮かび上がって来るはずだ。そしたら確信を持ってぐいっと鋭い切れるノミで刻んでやろう。それまではふたりの優しい祈りに耳を澄ましていよう。(K)

Dscf6817

|

ネコの絵

犬はよく描いてきたが猫はあまり描いてない。トワンを主人公にしてブログを始めてみて分かった事は、猫のブログは犬の数倍の量ある。そこから狡く推測してみるに猫の絵を描けば売れそうではないか?ただ猫を上手く描ける自信があまりないのが問題だ。しかし犬だって最初は難しかった。何でも練習をすればいいのだ、いずれ上手く描けるようになるはずだもの。いや決して売れる為にではないよ。
これも描き直している。未だ未だ。でも楽しい。(画)
Dscf6808

|

動き出した背景

ひとつ美しい形が出現すると、その周りに広がる。車輪が回りだすと、周りの空気が動く。脚の間を風が抜けて山のてっぺんで光が交差する。四つの世界の面がそこで繋がっているようだと思いながら今夜は山を山ではないように彫り直していた。高くもなく低くもない座標は今という一点。

ケルビムの輪の渦の中に鳥のような眼が幾つも浮かび上がって来た。これは猛禽類の目だな。(K)

Dscf6799

|

ガンバレ

深夜絵を描きながら、ネットの画像で見た園児達の「あべそうり、がんばれ」という連呼の様子を思い出して可笑しくて仕方ない。苦笑しながら筆を動かしていた。絵を描いていて「がんばれ」と言われたらどんな気持ちになるだろう?まあ園児位ならどうという事もないかなw それよりもパレットにある絵具、筆に乗っている絵具、画布に展開する絵具、彼らに「がんばれ」と言いたい。又は言って欲しい。
トワンの敷物の形を少し変えて安定させたつもり。表情が少し暗いな。(画)
Dscf6797

|

« 2017年2月 | トップページ | 2017年4月 »