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2017年2月

風が生まれるところ

アトリエで昼間水を汲みに外に出たら、ぐいっと水仙の芽に引き寄せられた。ヤカンを地面に置いてしばし眺めた。きれいな明るい薄緑色の葉がツンと空に向かって立っていた。枯れ草をかき分けたら、植えたはずもない所にもたくさん出ていた。イノシシがほじくって土を押しやったからだ。秋の終わりに一頭のイノシシに連夜畑を荒らされて大騒ぎしたっけ。今年は雪が降らなくて本当によかった。

今日は車輪の中心を意識しながら彫った。ケルビムの輪から風が起こるように彫った。川の流れは手の先から真横に水平にした。まっすぐどこまでも流れて行くように。(K)

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つたなく描く技術

誰もが技術を高めたいと思うのは、その方が抱いているイメージを描き出すのに容易だと思っているという一点では当然の事かもしれない。確かに仕事がはかどらない時は自分の技術のつたなさを嘆きたくなる。でも本当はそうではない。技術の問題ではなくイメージの不確かさが問題なのだ。制作の実際から見れば絵の中にその明瞭なイメージを見出せないでいるのだ。技術の問題ではない。逆に巧く描こうとすればするほど誠実さを欠き、イメージはその姿を現してくれないと知るべきだ。
この絵も最終段階だと思うのだが。(画)
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疲れたときの眺望

二つの輪は女の手が触れる辺りに位置が決まった。車輪は縦長にした方が軽やかな動きが出るのだと分かった。探りながら彫っているうちに分かったことは空の月はいつも丸いこと。水に映った月はわずかに横長が美しいということも。

疲れたのでソファに座ってしばらく眺めていた。もう誰も鞭打つ者はいない。「あなたの好きなように生きなさい」と言ってくれた人が3人いる。母と叔父、二人は仲の良い姉と弟だった。そして夫のガハクだ。ここまで来たのだからこれ以上はもう下がらないだろう。絶望もしないだろう。最低で最高なのは限界を知ったからだ。(K)

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イメージの生まれる瞬間

アトリエの中で何事かに思念を巡らせて歩き回る一人の画家。ふと立ち止まり目の前の机の上の紙にササっとコンテを走らせる。そこに浮かび上がった形はあの大坂万博会場に設置された巨大なモニュメント「太陽の塔」だった。そのイメージの生まれる瞬間の記録。というテレビのインチキドキュメンタリー番組を見たのを思い出した。
実際のところはそれとは反対に作家が「独自の」イメージを描き出す瞬間がいつなのか、そこで何が起こっているか…多分それは当の作家自身にも分からないのではないか。脇目も振らず延々と自身のイメージをキャンバスに描き続ける画家「地下室の猿」にはなりたくないものだが。
以前の「少女像」に加筆したらずいぶんよくなった。(画)
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風が車輪を回す

風がぴったり車輪に沿って流れていく。この方が動きがあっていい。車輪を回しているのは風だ。トワンの背中の羽も風に吹かれてふんわり横に伸びた。彫りながら考える。いつも最後にいい形に到達する。(K)

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発表する義務がある

ボイスの「何かを考えたり見つけたりした者は発表する義務がある」という言葉を読んだ時、動揺するものがあった。作品をどう発表したらいいのか?数度の展覧会を経てその意義に疑問が生じ、遂には発表するという行為自体が無意味ではないかと思い始めていたちょうどの頃だったから。以来ずっと気になっていたその言葉だったが30年経って最近ようやく理解した。彼が言った「発表」とは展示の意味ではなく「作れ=描け」という事だったのだ。
木は成長していく。(画)
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輪と風

トワンの背景に刻んでいる車輪は風の後ろに回っても面白いんじゃないかと思って彫り始めたが、少し離れて眺めたらどうもしっくり来ない。やっぱり車輪は前に出そう。ピンクの色鉛筆で印を付けたところで、とても疲れていることに気がついた。今日の風は強くて冷たかった。

風が吹くにも理由があるんじゃないかとガハクが話していたのを思い出した。人が去るとき風が起こる。あたたかい風が吹く季節はもうすぐだ。人の善なる意思が呼ぶ風はあたたかい。花を咲かせる風が吹く。今年は庭のリンゴにたくさんの花が開くはずなんだ。(K)

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トワンだっ!

大好きなものだから念入りに描いていたらずいぶん似たぞ。でもいいことかわるいことか分からない。絵にはバランスというものがあるから意識の統一が必要だし、画面の隅から隅までの全てが画家の(無)意識の産物だと思ってきた。場合によっては似てない方がよかったりもするのだ。でもそんな事はもうどうでもいい。描かれたものの中には現実を想起させるものがあり、想起させないものがある、それだけのことだ。(画)
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ケルビムの輪

広がりよりも奥行きだ。奥行きのある空間を出すにはそこに何かを刻まなきゃ決して出ない。ぼんやりとした陰影だけではダメで、線が必要なんだ。意味があるものだったら尚いい。

彫りながら、おお!これはまるで自転車に乗っているみたいじゃないかと夢中で彫った。少し離れて眺めたら、月の人の左膝が神経痛でビビッと痛みが走っているように見えたので、輪の中心を少しずらしたら、完璧に奥に引っ込んだ。女の手にちょうど触れるあたりにタイヤが来た。

問題はトワンの背景に入る前輪だ。輪はケルビムを表象する。目にも留まらぬ速さで回る輪の中にいくつもの目が描かれているのをウィリアム・ブレイクの銅版画で見た。あの壮大で克明な異界の創造的描写を支える意識に敬服する。目をそっと彫ってみた。くっきり刻むまでにはまだ相当な時間が必要だろう。その瞬間に備えて怖れず進む。(K)

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どうやっても上手く行く

描いていてこの先どうやってもいい感じがする絵ってのがあるね、という話を昔画友としたことがある。描き始めの割と早い段階からそういう印象を受ける場合もあるし、ある程度仕上がってきた時に感じる場合もある。勘違いかもしれないけど(笑)。いつやめてもいいような、いつまで描いてもいいような。多くの場合はそんなことはない。迷ったり諦めかけたり勇気を出して描き続けたり…そんなものだ。
この絵はそんな特別な?感じがしてきた。今日は白い人の周りに一番時間を使ったかな。(画)
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優しくなった足の裏

山で拾い集めた杉の枯れ枝をライトバンの荷台から降ろした。細い枝は足で折る。ストーブに突っ込めるくらいの長さの30〜40センチくらいに。枕木に当てがっては靴底で踏みつけることを繰り返して、ポキ、ポキッ、次々と折って行くのだが、ときどき足が弾き返される。枝が太かったり、まだ生木だったりするからだけど、私の体重が軽くなったせいでもある。以前はガツンと一発で折れたのに、今はどんなに頑張っても足の裏がふわんとなる。折れない枝は後で丸ノコで切ればいいからと、さっさと諦めて横に放り投げた。バレリーナのような足では枝は折れない。

山の稜線をぎりぎり低くした。トワンの足裏にぴったり合う位置まで下ろした。(K)

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必要性からの美

必要から生まれたものは美しいという。道具でも機械でも機能を最優先した物が持つ美しさ、競技での動作の形、芸の所作というようなものだってその動作の目的に適うものは美しいとされている。確かにそういう所はある。でも今日偶然に映像で摩天楼や黄金橋を見た。美しい?あれだってある種の必要性から生まれて来たのだろうに。そういえばゴダールにNYの摩天楼を撮った映画があったっけ。彼は何が言いたかったの?
絨毯の模様はこゝまで来た。未だもう少し。(画)
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月を彫る

この顔はいつか見た顔だ。どこかで会ったことがある顔だ。知っている顔だけれど固有名詞の付かない顔なのだ。それは新しくて古い顔で、ずっと昔の最古代の人に繋がっている顔なのだ。やっとそういう顔が彫れた。と同時に、月を彫る方法も見つかった。昨夜アトリエからの帰りに月を眺めながら彫り方をずっと考えていたんだ。(K)

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落ち着かない所が面白い

毎日の足洗いの習慣の中でトワンのちょっとした優しさに気づいて嬉しくなった。絵の中のトワン。もう少し欲を出して絵の中の犬を仕上げたいと思った。絨毯と一緒にトワンを描き直した。絨毯の逆遠近法の中で犬と敷物がうまくはまっていないから空間描写が落ち着かない。ここを耐えながら描き続けられる所が今までにない面白さだ。(画)
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雲の羽

羽のような形の雲を彫った。トワンの背中にくっ付けないように彫った。今朝ガハクが、「羽が生えているともう死んじゃったみたいだなあ。まあいつかは死ぬんだけどさ」と言ったのを思い出しながら彫った。天使のような存在はどうやって作られるのか。いじめられずに育ったからか。いじめられても耐えたからか。いじめられても許したからか。いやそうじゃないな。根に持たずさっぱりしていて賢い犬だもの。彼は臭いで嗅ぎ分けるんだ。善いものと優しいものと美しいものを。(K)

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アメ玉のような色

絵を始めた頃、色はたくさん使えば使うほどいい絵が描けると勘違いしていた。持っている絵具を全部画布に並べたら教師に何とも言えないような困った表情とともに君は色が全然分かってないと言われた。今思えば相当ひどい色だったに違いない。技法書に色のどんちゃん騒ぎとかアメ玉のような色という表現が出ていた。正にそんな感じだったろう。灰色の意味が分かるようになるとその状態から色の理解が格段に進んだと思った。しかしもっと後に「たくさん色を使って個性的な絵にしなさい」とベックマンが生徒に指導していたという話を読んだ。色の世界は難しい。
絨毯の模様をもっと変えれないかと猫の周りから始めた。(画)
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切れるノミ

昨日久しぶりにフイゴ場で火を起こしてノミを鍛え直した。昼間に焼き入れをしたので切れ味が良い。夜にやると甘くなる。正丸の刀鍛冶の知人は夜にしか焼き入れはやらないと言っていたけれど、シベックに使うノミは昼間でなければダメだ。明るく赤熱した色の段階で急激に冷やす。木をナイフで削るように石を薄くさらう為の平ノミも気持ちがいいほど鋭く喰いこんで行く。

今夜はトワンの額や耳と頬と向こう側の目をそっと慎重に彫った。脚先をさらに細くした。後ろ足も地面を蹴っているように彫り直した。切れるノミだから出来ることだ。切れるノミを持つと彫りたくなる所が見えて来る。道具と手と頭が一体になっている時は、心には何もない。(K)

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真善美

なぜエンデは真善美は一致しない、なんて言ったんだろう?ギリシャ以来の古典的観念は現代では通用しないという事を言いたかったんだろうか?確かにいい絵(又はよくない絵)だと思うが私はこの絵は嫌い(又は好き)だ、と言ってみるとその方が真実らしく思えるし現代っぽい。又はこの絵は醜いが表現として真摯だとか。いかにも迷妄の時代の感性に相応しいではないか。僕にはそんな時代の感性を身にまとう必要はないけれど。
白い人は座ってオルガンを弾いている。(画)
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技術、意志、孤独

「きっと彫り直すよ」とガハクに予言された通りになった。しばらく放っておくと形は石の中で成長する。そこから先の向こう側へ行くには、技術と意志と、もうひとつ孤独が必要だ。いい仕事ができる日はいつも寂しい。

「創造の喜びというのはそんなに簡単に与えられるものじゃないんだ。それを知っているのだから幸せじゃないか」と昨夜励ましを受けた。(K)

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シリーズもの

なぜ同じテーマで数点も作品を作るのか。昔シリーズものというのが流行った。ひとつのテーマで現れる複数のイメージを複数の作品で描き起こすのだ。何となく表現者のイメージ世界の深みを表しているようで憧れたものだ。でもこの母子像のテーマはそういうのとは全然違う。どの作品もそれなりにできたと感じる事もあるのだが暫く時間が経つと何か足りない。その絵自体を描きなおすのも勿論だが別の画面で試したくなる。あ?こういうのをシリーズものって言うのかな?
白い人が登場する「母子像」はこれが初めてだけれど。(画)
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月を仰ぐ

月の人がやっと彫り上がったので、今夜は二人の間の空間を彫った。山にボリュームが出て、トワンのまわりが明るくなった。明日は、女の左手から流れる風がトワンにふわっとかかって、やわらかく丸いスフィアが彼を包む様子を彫ろう。

今まで見たこともないほどたくさんの枝を伸ばしているりんごの木のことを思うと楽しくなる。今日はりんごの木の治療もした。傷口を和紙で塞いでやって春に備えるのだ。

石を手で彫り削り磨く仕事は時間ばかりかかるけれど、こういうやり方でしか通れない道がある。分かったことを聞いてくれる人もいる。ここに一人いるということは他にもいるということだ。今夜の月はダイヤモンドの真ん中に浮かんでいた。(K)

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また顔を描き直した

「センセイは何流なんですか?」と聞かれた事がある。美術に興味を持つと自認している人ほどそんなものだ。画家も若い頃はたくさん絵を見るのはいい事だと思う。そうするべきとは思わないが自分の行く道を発見する一助にもなるだろう。しかし今の僕の状態では他人の作品を見るのは有害である事が多い。それがいい絵であればそこには個性や独創性があり間違いなく影響を受けてしまう。絵を見るのは好きだから時々見たくもなるができるだけ見ないようにする。見たら忘れるようにする。自分勝手に描くにはそれしかない。
母親の顔を描き直した。こうしてみるとこの方がいい。あちこちに不満はあるのだがその不満の堰を越えるまではこれでいく。(画)
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月の人の足

ここ数日、月の人の右足が決まらずに苦労していたのだけれど、ふと指を開いてみたらどうかと思い立って彫り直した。優しい感じになった。この月の人だけは薄肉彫りでやるつもりだったのに、しっかり深く回り込んで強い陰影を付けたくなった。そうしないと風景に溶け込んでぼんやりとしてしまう。幽霊みたいでもいいと思っていたのがそれじゃつまらなくなったのだ。(K)

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パクリ

あれは俺の作品の真似だ、という言葉をよく作家から聞く。相撲取りでもないのに他人のふんどしを使って星を上げてるのが気に入らないという事もあるのだろう。画家がオリジナリティを主張し出したのはいつ頃の事かはよく知らない。デューラーは独自のロゴを絵の隅に記している。それ以前というとZのイニシャルから「ゼットの画家(マイスターZ)」なんて呼ばれてる人もいる。カッコイイ。ブリューゲルは初めの頃、ボッシュが死後でも人気があったのでボッシュとサインして版画を売っていたとの事。しかし当時それが特に禁じ手というのでもなかったようだ。今の著作権問題なんて商業事情でしかなく作家には無関係な事だと僕は思っている。
犬に続いてかつて一緒に暮らした猫を描き直している。(画)
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降ってくるとき

耳の後ろの髪を長くした。影の中に刻んだのでほとんど見えないけれど、この方が首が際立つ。頬骨や顎の線がだいぶ落ち着いて来た。足元とか胸を彫りながら顔を見上げると、ふっと美しい顔が見えることがある。そういう時は急いで平ノミをそこに当てる。きれいな形は考えて作れるものじゃない。何もない時にしか降りて来ないのだ。自分の力でできる人には降ってくることはない。

今日は山で焚き木を拾い集めている間も足が冷たくならなかったし、アトリエの水も凍っていなかった。月はすっとナイフで切ったばかりのメロンのようで瑞々しかった。今夜は春の匂いがする。(K)

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トワンがうちに来た日

12年前の2月2日の夜、隣家の座敷の隅に置かれた段ボール箱に子犬はきちんと座ってほとんど身じろぎしないで僕らを見つめていた。抱いてうちに帰り楕円形の敷物の上に置いた。子犬の体からすれば随分大きな敷物だったが一年もしないうちにちょうどいい大きさになった。つい最近まで体を触れるのを好まない性格に見えたが最近は自分から撫でろ撫でろと催促するようになり少し性格が変わったようだ。それで要求に応えるふりをしてわざと思いっきり抱きしめたりすると嫌がり暫くは呼んでも近寄って来なくなるからおかしい。
愛するものを描くのは楽しい。絵を描くとは対象を愛することだとも言える。(画)
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美しい脚

男の脚は女の脚より美しい。汚されているイメージと偏見を落としながら彫って行った。そしてやっと足先まで到達できた。指の先が山に触れているように見える。いい形だ。こういうのが彫れた今夜は特別だ。

足の親指が山の斜面にツンと触れている様子を彫りながら思い出していた。
「自分の足で歩けるということがどんなに素晴らしいことか僕は分かったんだ。それだけで幸せなことなんだ」と2ヶ月寝たきりだったガハクが再び歩けるようになった時の喜びを語った言葉だ。(K)

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描いてから目的を知る

絵の仕上がりに迷いが生まれると、その絵を始めた動機をもう一度思い出すようにして再びその位置から方向を探ったらどうかと以前は考えたものだ。それでもなかなか上手くいかないという体験を数多くして今ではすっかりそういう考え方をやめてしまった。確かに絵を描くという行為は、知らない事は描けず、既に知っている事しか描けないのだが、むしろそうなると、知らないと思い込んでいたものを、お前は実は知っているんだよと絵から画家が教えてもらえる場でもあると考えてもおかしくはない。
この絵は模様みたいに人物を描こうと始めたのだったなと思い出された。母が描き直されると娘も輪郭が徐々に小さくなり、犬も描きなおさねばならなくなった。今は存在を立ち上がらせようとしている。(画)
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