« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »

2017年1月

肩の広さ

やっと肩のラインが決まった。けっこう肩って広いのね。何度も鎖骨の位置を上げたり下げたりしたけれど、結局奥行きがもっと必要だったのだ。鎖骨の向こうに見え隠れする複雑な起伏は、遠くの山のように見える。垂直に切り立った体を登りきってやっと着いたところが肩で、それは巨大人の中の謂ば峠だ。峠を抜ければ美しい場所に行けるだろうか。

月の光がいっぱいとまる肩は広いのだ。(K)

Dscf6550

|

知識と技術の無さ

レイノルズの描き方というのがある絵画技法書に載っている。画家は先ず人物の顔だけを画布の上で絵具を混ぜ合わせながら小一時間グリグリと納得いくまで描き続けたと。それからセザンヌの、モデルを100回も座らせてやっと着ているシャツのボタンが描けたのに満足したという逸話とか。両者とも画材に対する無知と技法の拙さの良い例として伝統的絵画技法書らしく訴えている。絵具の組成に興味を持ち出した頃、近代美術史とは全く違う方向性を持った内容に衝撃を覚えた。ページが擦り切れるほど読んだおかげで自分の絵の描き方にその後長いこと呪縛がかかってしまった。絵の保ちなんて今ではどうでもいい。好きなように描けばいい。
壁の模様が進化してきたので人物の顔もいじらざるを得なくなった。この方が前より全然いい。(画)
Dscf6545

|

巨大人の中を行ったり来たり

ひ弱だが優しい顔、強靭だが不安な顔、涼しげだが老いた顔、いろんな顔を通過する。もう何度も彫り直したがまだ届かない。その時にしか与えられない顔があるのだから焦っても仕方がないのだけれど、今夜の理解の最高点まで届いただろうか?もう限界だと深いため息をついて一旦道具を置いた。少し離れて眺めた。そしてストーブに細い薪を五本ほど放り込みもう一度椅子に座った。顎の先端を細くして、首の影を強くして、肩へ入り込むカーブをきつくした。

解剖学的に正しいかなんてぜんぜん問題にしていない。ただそこに一番ふさわしい美しい形を探している。新しく発見したいのだ。(K)

Dscf6527

|

思想からの解放

「面白いなあ、彼らには我々が持っている洗練への希求というものが全くない」ここで言う「彼ら」とはアメリカ人であり「我々」とは欧州人だ。ヨーロッパから大戦中に亡命した画家の目から見た自由な感性の存在への驚きを言っている。これを言った人の名前は忘れた。
僕らはいつの間にかどこかに多かれ少なかれ「思想」なるものを持っている、怠惰ゆえか努力の末か。どちらにしても思想は現実を生きる為の道具でしかないのに加え、他人の思想では今の僕らの現実を生きる事はできないはずなのだ。(画)
Dscf6526

|

善良な顔

メフィストがついにファウストの魂を手に入れようとする最後の瞬間はまことに美しい。若き日の誠実と情熱が、退廃と絶望に落とされても尚変わらぬものがあるとしたら、それは善良さじゃないだろうか。死んだら名が無くなる。人は裸だ。いや、服を着ていても見破られる、見えてしまう。考えてみたらこの世だってそうだ。分かっているのだ、互いに相手の度量と自分の限界が。でももっと良い事を知ってしまった。善良さを最初から与えられている人がいて、そういう人は変わらないのだと。そういう人に着いて行く。(K)

Dscf6516

|

世のため人のため

古人の発見や技の上に乗っかって絵を描いているのだ。それを只消費しているだけでは情けない。今の自分に新しい発見があると思ったならそれを「発表する義務がある」(ボイス)。それが自分にしか降りて来なかったものかどうかは分からないにしても。世の為人の為に生きるという事だ。言い方は陳腐過ぎて人の失笑を買わずにはおれないだろうし、もしかしたらお前ごときにと傲慢さを指摘されるかもしれないが。
天井と壁を追加してみた。(画)
Dscf6515

|

水脈

山を一つにして少し膨らませた。冷たい線がテーマに合わなくなったからだ。トワンの足が地面を蹴っている。男のステップも軽やかだ。女の足の影が山のてっぺんにかかっている。空飛ぶ蝶から落ちた甘い蜜の奔流は一旦堰き止められたが、今夜再び流れ始めた。山の後ろを通って海に注ぎ始めた。すべてが繋がって来た。これでよし。(K)

Dscf6505

|

おカネとテクはあった方がいい?

ラジオの人生講座で講師が「みなさん、おカネはあるに越したことはないのですけども…」と情けない枕詞を使っていた。本当なら人生にとって(世の中にとっても)「おカネはないに越した事はない」と言って欲しかった。今日それを思い出して「おカネ」と「絵を描く技術」は同じようなものだなと思った。ほとんどの画家にとって、技術というものはあればあるほどいい、あるに越した事はないと思っているに違いない。それは全く逆だ。技術は仕方なく必要とされているものなのであって、本当はそれ無しに絵が描けるのが理想なのだ。
さて、部屋の隅に木を植えた。(画)
Dscf6504

|

男のヌード

藝大で学んだ7年間の間に一度だけ男性ヌードモデルを選ぶチャンスがあったが、私が反対したのでいつものように女のモデルになった。3ヶ月間付き合うことになるモデルなのだ。男子学生ばかりのアトリエであってもモデルは女性の方が私としては落ち着いて仕事ができた。今思えば、彼を頼むべきではなかったか?

でも全く違うことも考える。今夜この月の人をここまで彫ることができたのは、今までやったことと、やらなかったことの集合の結果なのだし、人の意識の最内部は嫌悪感で守られるとも言われているじゃないか。今なら男のヌードだって正面から見つめ彫ることができるが、もうモデルは必要ない。頭の中に男も女も、犬も猫も、小鳥や兎や山の獣たちが住んでいるからそれを見つめて彫っている。

今夜は2時間だけだったが、ストーブもよく燃えていい仕事ができた。外に出たら、オリオンが西に移動していた。春に近づいている。(K)

Dscf6499

|

新しい描き方

畏れ多いことに新しい描き方ができそうな気がしてきた。この歳になってそんな事があり得るのか、勘違いだろうな。具体的に掴めていないし。
妻が「白い人」をレリーフに彫るのに苦心しているという「あなたも『白い人』を描き始めたらきっと苦労するよ」だって。へん!実際に見たのは俺だぜw(画)
Dscf6484

|

人の素

月に照らして考えてそれがほんとうに合理的なことならばどこまでもそれでやって行ける。難しいこともだんだん分かり易く解きほぐすことができる。姿がはっきり見えて来て周りのものに美しい反映をもたらす。そうじゃないのは合理じゃなく功利に過ぎないからだ。純粋なものが役に立たないなんて言うようになったらおしまいだ。もうそんな仕事やめた方がいい。お金のためにならもっと良い仕事につくべきだ。いいものは月に照らすと美しく輝く。男も女も動物も。(K)

Dscf6479

|

現実と人間の間に

既に死んだ者とこれから生まれて来る者の中に私はいるとクレーは言ったそうだ。今見える世界に自分は属していないとも。現実世界は余りに不可解で居心地が悪いと。一方ブレイクは自然は私の想像力を減退させると言った。これも同じような意味だろう。そしてセザンヌは自然をよく見ろ自我を捨て自然の反響物となりキャンバスに定着させるんだと印象主義者らしい事を言った。しかしこれも要するに現実と人間の間にあるものを芸術だと主張していると解釈できないかな。それならみんな違っているようで言ってることはけっきょく一緒だ。
壁の模様を描くのは実に面白い。(画)
Dscf6477

|

厚い胸

ウィリアム・ブレイクの銅版画に刻まれたキリストがとても綺麗なんだ。すーっと透き通るような立っている男の姿には完璧な知性が宿っていた。男の人の美とは知性が形になったときの姿なんだ。

胸の厚みがやっと出て来た。小さな光をとらえて反射させよう。唇の薄い縁、耳たぶの上、瞼の庇、小さな棚に載ったきらめきを彫る。(K)

Dscf6471

|

狂人と勇気

ジャコメッティには画家は自分の感覚と主題にひたすら没頭すればいいんだと教えられ、大いに勇気付けられそれまでの迷いが消える思いがしたっけ。しかし矢内原伊作の『ジャコメッティとともに』を読むと、毎日モデルを前にして描いては消し又描き又消し、遂には何も描かれていないというような作業を延々とし続ける作家を、狂人ではないかと疑った時もあったようだ。自己の感覚に真に誠実であろうとする姿はそんなにも極端に見えるほど容易な事ではないに違いない。それでもあの人には今でも勇気を貰っているし励まされ続けている。
なので壁の模様は全くどうなるか分からない状態になっているが全然平気なのである。(画)
Dscf6465

|

月に磨く

「月に磨く」とは、月に照らされた風景が美しさを増すことを言うのだそうだ。今夜は月を見上げている人の目の中に小さく月を刻んだ。その中にわずかに陰影を付けてみた。月の兎が映っているように見えるだろうか。男の顔がやっと美しく彫れるようになった。女の顔はまだもう少し。(K)

Dscf6460

|

記念碑的作品

自分の今を表しているという意味ではどの作品も全て記念碑的なものだとは言える。しかし後に振り返って眺めてみれば、それまでと何がが決定的に変わったと思えるような作品がいくつかはある気がする。今描いているこの絵がそうなるのではないかという予感がする。女の子の顔が少し良くなった。きっと背景も含めてもっと変わる。(画)
Dscf6453

|

目の中の月

男の顔を彫り直し始めて二日目、好きな人の顔に似てくるのは良いのだけれど、ちょっと離れて眺めたら嫌いな人の面影が出て俄かに焦った。どこがそのように見せるのかつぶさに点検開始。下瞼の頬骨を強調しようとして抉った影のせいだった。老人の陰鬱な印象はその辺りから来るのかと納得。

よい顔、美しい顔とはどのような顔か彫りながら考えている。老人でも若者でも良いのだ。

今夜はガハクの目や眉間の形を思い出しながら彫った。月を見上げている時の瞼、瞳に映る月を彫った。

学生の頃いっしょに彫刻を学んでいる同級生がオートバイで転倒して強く頭を打って一時的に記憶喪失になったことがある。お見舞いに行ったら私のことは誰だか分かるようだったが、結婚したばかりの奥さんのことが思い出せないという事態がしばらく続いた。「愛は記憶に過ぎないのか?」ということがそれから我が家のテーマとしてときどき議論のテーマの一つとして浮かび上がっていたのだけれど、今夜分かったことがある。

とおめいなまるい球の中に記される永遠の形がある。美しく愛おしいものたちの形だ。愛は記憶ではない。あなたの目に映る好ましいもの、月の光が入った目は美しい。(K)

Dscf6444

|

顔を描く

誰かの顔に似せようとしているわけではない。この絵のこの感じに相応しい形にしたいのだが、それがどういう顔なのかは描きながら出てくるものと相談する。いや動物、鳥、草木でさえ絵の中にあれば全てそこにあるべき形でなければならないという事に違いはないのだが、人の顔は特別に感じてしまう。そして時にそれが誰かに似てくるという事がある。好きな人の顔ならまだしも嫌いな人に似てくると、深層心理との関係に思いついたりして気分が悪い。それで慌てて消しにかかったりする(笑)しかし人の顔というものは誰かに似てくるのを止めようもないし誰にも似てない顔なんて作りようもないのだ。
少女の顔を描き直している。まだダメだ。(画)
Dscf6436

|

むかしの経験

「むかし抽象を彫っていた経験があちこちに出ているね」とガハクに言われた。このレリーフのどこにそれがあるかと言うと、動物にも人にも山にもニュアンスとしてたくさん使っている。

今夜は月の人の上半身をずっと彫っていた。昨日は下半身。だいぶ締まって来た。顔が取り残されて大きな目がぎらぎらしている。明日は顔を直そう。

道具を揃えて石の粉を刷毛で払い、いつもの筋トレを始めたら肩甲骨の付け根が軋んだ。月の人を彫るにあたって気合が入っているらしい。満月が車までの草原をくっきりと照らした。地面がコチコチだ。(K)

Dscf6430

|

こんな大きな絵を描いてどうするの?

2mくらいのキャンバスを前に「こんな大きな絵を描いてどうするの?」と訊かれた事は前に書いたかもしれない。その問いを発したのが小学生だったのでやや呆れもしたのだが、今思えば、人生を数年前に始めたばかりの人にとって、目の前のその行為の意義を問わずにはおれないのは必然なのかもしれない。予め理解しているような振りをしているだけの大人の誤魔化し癖だろう。
模様と立体的な事物の描き分けなど全く考えずに描けるようになった。(画)
Dscf6424

|

浮かび上がる人

彼の足が濡れないように流れを寸前のところで堰き止めたら、ステップがずっと軽やかになった。もう後方の山は幻ではない。実際に水を遮ったのだから。で、このふたつの山は双子だということになった。

物語は最初から予定されているのではなく、彫りながら作られていく。水と陸との境界線がだんだんはっきりして来た。月の人が最後に大きく浮かび上がるようにしたい。(K)

Dscf6421

|

人間の記述

「けっきょく人間を記述するに過ぎない」と言ったのはボイスだったか?「人間」の前に「自分という」という言葉を付け加えて理解している。どんなテーマやモチーフやその表現法を選んでも結局何を言っているのかと言えば私とはこういうモノだと。表現とはその程度のものでそれ以上でも以下でもないと。絶望なのか希望なのか?
自分の絵なのだから自分勝手に好きなように描けば良い。壁紙の模様を描きながらしかしそれが実はなかなか難しいと感じるのは不思議なことだと考えていた。「人間を記述する」のはそう簡単ではないということか?いやもしかしたら新しい描き方に気づいたか?などと。(画)
Dscf6420

|

徒労と成果の境目

退屈さを我慢して同じことを繰り返して行くと複雑な模様ができる。でもそれは彫刻にはならない。だからと言って反対に、無造作に勝手気ままに彫っても何にも生まれて来ない。あの清々しい森の霊気と冬の満月の光が頼りだ。

今夜は森の影の彫り方を発見した。蝶の裏側(そこは側面なのだけれど)にも樹木を刻んでみたら影の中に生き生きとした奥行きが出て、蝶はさらに浮かび上がり羽ばたいた。ふと思いついたことではあるけれど、やってみなければ分からなかった。

ゴッホの展覧会を観に行った生徒さんが、
「すごい厚塗りなんですねえ〜驚いちゃった」レプリカが用意してあったので触ってみたのだそうだ。ガハク先生それに応えて曰く、
「そういうことを感じるのは実際に油絵を描いているからなんですよ。描いていないと気が付かないし、そんなことに興味も湧かないものなんです」と。(K)

Dscf6412_2

|

時間と労力

一枚の画面に時間と手間を惜しまず絶え間なく仕事をするのと、イメージが熟成するまでゆっくりと待ち仕事自体はほんの少しの手間で済ませるのとどちらが良い作品を生み出せるだろう?ある人は前者を言い別の人は後者を選ぶ。若い頃は悩んだものだが、この歳になってみれば答えは明らかだ。画家は自らの仕事のやり方を選べるほど熟達した仕事人ではない。他人からそう見えるとしても(又は本人が主張したとしても)実は作品が彼の技法を選んでいる。
さて、絨毯に続いて今度は壁紙の模様なんだけど。(画)
Dscf6406

|

溶かす音

ピアノが唐突だったのだけれど、やっと違和感は消えて位置が決まった。そこから広がる音に隔壁が溶けた。鹿がそこにいるのも当然と思える。彼が歩こうとする先にうっすらと道が見える。道は現れるのだ。

針葉樹の森を陰刻で彫ったら夜のエーテルがまっすぐ上に向かって立ち昇った。その間を通って差し込む月。もうスポットライトじゃなくなった。

水も三層に分かれている。いちばん深く暗いところまで月は降りた。(K)

Dscf6386

|

受け身

版画ばかり数日やっていたらモノクロの画面に慣れてしまい、久しぶりに見た油絵の圧倒的な色の豊富さに自分ながら驚いてしまった。特にこの絵は派手すぎない?
気を取り直して絨毯の部分を描き込んだ。絨毯で思い出すのはアンソールの初期の室内画。見事なタッチでフカフカの絨毯が描かれていた。若い頃から卓越した技術を持っていたと分かるのだが、それはそれだけの事でしかない。彼の名を不朽にした後年の傑作にはあの技術は見えない。新しい表現の為に古い技術を捨てる必要があったのだろうか?おそらく選んだのは画家ではない。画家の身体とは自己の表現の受け皿でしかないのだ。(画)
Dscf6381

|

霊界の椅子

ピアニストの椅子をはっきりと彫ってみた。すると座っている人の腰の位置が安定し、ピアノのずっしりしたマッスも出た。椅子の軽やかさとは対照的にだ。こういう体験は珍しい。

遅い晩御飯をとりながらガハクとデューラーの銅版画『聖ヒエロニムス』にある事物の実在化に話が及んだ。主題を強調するために周囲を省くのではなく、まわりの物を克明に刻んで主人公を取り囲む。どこを見ても見飽きる事がない。しかも主題はボケるどころかキンと透き通ったエーテルの香りが漂ってもいる。明確な線を求めて何度でもやり直す覚悟がないと出来ない事だ。

自分の持ち時間と手間や労力、そして他人からの賞賛と報酬や栄誉への期待をぜんぶ忘れてこそ楽しめる領域がある。

今夜は静かで澄み切った霊気の中で遊んだ。いや、ただここだあそこだと夢中でノミとハンマーと砥石を動かしていただけだけど。いい夜だった。(K)

Dscf6376

|

カワガラス

新年になってとりかかった木版画。ほぼできあがった。刷っては版に修正を加え又刷る、の繰り返しで十数枚刷り終わった。油性インクを使って銅版画プレス機で刷っている。繊細な刀の彫り痕や木の肌合いのような細部まで写し取れるところが気に入っている。カワガラスはアガノ村に来て初めて知った。空だけでなく水の中を泳ぐ姿をよく見る。川底を歩いたりもするそうだ。水の中では体にたくさんついた気泡のせいで銀色に光るのだそうだ。(画)
Dscf6374

|

一体化

『とおめいなまるい球』の縁で背中の部分が隠れていたピアノの全体を彫り出した。椅子も形をハッキリさせた。彼が向かい合っているピアノは、恋人であり、娘であり、主である。人は具体的な像をイメージできない限り宇宙の果ての縁で孤独に佇むことになる。暗闇を前に絶望してしまうのだ。だから彼は今ピアノと一体になった。(K)

Dscf6369

|

描きやすい形

「人のこのポーズをこういう視点から描くにはどうしたらいいでしょう?」と質問されたことがある。何とかアドバイスはできたようだったが、技術のない人ほど難しい形を描きたがるなあと思った。過去の傑作などはその逆で多くの優れた画家は描くのが容易なものを描いている。容易に描いているように見えるのではなく、容易に描けるという所まで形を追い込んでいると言ってもいいかもしれない。
木版画の彫り方にもそれは言えて、彫り溝を凝って揃えたり版としての美しさをデザインしたりするよりも、むしろ楽に彫れるやり方で無理なく彫った彫り跡の方が美しい事が多い。子供の絵の魅力にも通じるものがある。(画)
Dscf6365

|

蝶の両翼

森を超えて飛翔させようと今夜は何度も山のラインを彫り直していた。だんだん低くなり真横に広がりとうとう衝立のように立ちふさがる壁の森になった。この辺りの狭い谷から見上げる空はまさにこのようだ。蝶の両翼は情愛と知性、二つは一致して羽ばたく。背中に集まる月の光がこぼれて川になった。(K)

Dscf6359

|

« 2016年12月 | トップページ | 2017年2月 »