« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »

2016年12月

猫は歩き始めた

この絵はいつできあがるだろう?絵の完成に焦燥や不安を持ちながら描くという事がなくなった。それは発表という前提がなくなったからもあるけれど、その当面の行為の正当性?を求めていたからだろう。描くべきものがあるのが先なのか描きたいという欲求が先なのかはともかく、描くことは今や生活することと同義で、描いてさえいれば生きていられるという気持ちだ。絨毯の上に座っていた猫は立ち上がって歩き始めた。(画)
Dscf6357

|

夜を彫る

火山のカールとして彫り始めたのだったが、山はすっかり取れて蝶が羽ばたいた。長い尾を引きながら闇に向かって飛んでいく。光と闇が縞模様になって垂直に降ってくる。(K)

Dscf6351

|

緩めに描く

何事も緩めにやり終えるのが最良ではという感覚になっている。どこまでも完璧を目指して突っ込んでいくには体力的にきつくなったからかもしれない。しかしきっちり仕上げるというよりもどこか抜けていた方がハイレベルではないかと本気で考え始めた。しかし言うは易く行なうは難し。緩いという状態で仕上げる、普通であればこの二つは矛盾している。
絨毯の模様はなんとかなりそうだ。(画)
Dscf6342

|

月の粉

夕暮れに自転車で走りながら眺める金色の森。薪を拾いながら見上げる真っ直ぐ伸びた杉木立。夜水場の点検に向かう小道を覆う黒い森。33年の間に森の上には月の粉がいっぱい降り積もった。今こそそれを彫ろうじゃないか。(K)

Dscf6333

|

いい顔

誰かの肖像というのではなく人の顔を描いている。そのイメージというのは時に強く、時に仄かに浮かんではいるが、瞼の裏に明瞭な形で見えているわけではない。描きながらキャンバスの上にそのイメージが出てくるのを期待して待つ。その時その顔は間違いなく「いい顔」をしている。今日は子供の顔を描き直した。(画)
Dscf6324

|

冬の満月

冬の満月の明るいことと言ったら、、、山から立ち昇る気体が見えるのだ。深海の底から見上げているように思えた『白い人』が現れたあの日。あれからずいぶん経った。この頃は空気がないように見える。ダイレクトに光が届く。透明度が増した。(K)

Dscf6311

|

嘘と真実の間

上手く描こうとすると必ず嘘が入り込む。それくらいならむしろ下手に描こうとした方がまだしもだが、それもまた真とは言い難い。心を空しくして、描こうとする「何か」に向きあえるならその時が一番「真」に近づいているに違いないが、そんな心境に実際なれた事があっただろうか?
止めようとしてはいけない、常に動いていく中に出てくるものを見ようとしなければ、表現も腐ってしまう。(画)
Dscf6302

|

影響されて

スッと跳んだ女の足がうまく彫れたので、トワンも彫り直さざる得なくなった。耳から始めた。頬を細く、目をシャープに、シッポは小さくクルンと巻き込んで、胴のくびれを入れたらスリムでかっこよくなった。爽やかな風の中愉快に歩く犬がいる。(K)

Dscf6295

|

逆遠近法

絨毯の形を逆遠近法で描いてみた。「逆」という言い方が正しいかどうか解らないが、遠近法が一点透視だとすると逆遠近法は二点透視ということになるだろうか。前者はカメラ目線、後者は二つの目を持つ人目線という理屈(言い過ぎ?)。写実的表現には向かないが観念的表現には向いている。ところで絨毯の枠線を何本も描いていたら中央に行くに従って普通の遠近法になっていくのに初めて気づいた。問題は、まだこのままでは美しくない。(画)
Dscf6293

|

天的なスフィア

パンの香ばしい匂い、肉の焼ける匂いがすると天使が近くにいる証拠。チーズを出されて心踊るのもそうらしい。トワンを見て笑いかける人たちは彼のスフィアに気がついている。背中の上空には薄いピンク色したやわらかな雲が浮かんでいる。尻尾の先に白い蝶がとまったら、春が来る。(K)

Dscf6281

|

予期

あれは全く想像していなかったことだったのだ。飼っていた猫が僕の膝に乗ろうとしたが乗れず床に落ちて絶命した時、それまで僕はまさか彼が死ぬとは思っていなかった。だからこそ驚きと悲嘆がとめどもなかったのだ。あの黒い猫が僕らの呼びかけや抱擁に何の反応もしない時が来ると思っていなかったのだろうか?父の死も母の死も予期していたのに。(画)
Dscf6280

|

蛇のような手→白魚のような手

「左の手おかしくないかい?蛇みたいだ」とガハクに見事な指摘を受けて、二晩かけて彫り直した。コンパクトになった体に対して、そこだけ取り残されて異様に長いままだったのだ。うねうねと横に流れている形は確かに白蛇のように見えた。指の先までが蛇の頭のようだった、少し口を開けてもいた。

指先はすっかりそぎ落として彫り直した。肘は浅彫りにした。肩の辺りを慎重にじりじりと動かす。太く温かい力感。蛇と魚では光のとまり方が違う。(K)

Dscf6270_2

|

不自由な描き方

最近はよくペンティングナイフを使って描く。その一番の理由は「思い通りに描けない」ことだ。ある線や色面をイメージしたとしてその通りに描ける道具を選びたくなるのは画家の当然の心理だ。でも僕の場合少しそれでは不満なのだ。いい筆(最適な筆)よりも細かいことがうまくできない尖ったナイフを選んでいる。思い通りに描けたとしてもそこに見るのは何かが決定的に足りない自分だという元も子もない結果を見続ければ…。むしろ「できない」故に「できる」と考えたくなるではないか。決定的な筆を入れるには場が育っていない。(画)
Dscf6268

|

香りを彫る

女のまわりには香りが広がっていなくちゃダメだ。香りのない女は匂わない花のようなもんだ。つまらない。死んでいる。

男には光がなきゃダメだ。光があるところにはきっと知性がある。知性のあるところには花が寄ってくる。香りと光はふたつで一つ。そこにようやく美が現れる。

月にこそ愛があるとウィリアムブレイク。(K)

Dscf6259

|

遠き道 近き道

この絵は相当時間がかかりそうだ。手数だけでなくイメージの固定には色々な難しさがいつになくありそうだ。それでもいつかはできるだろうと高を括る。歩いていさえすればいつかは辿りつくだろうという確信もある。時間の感覚が若い頃より長くなったのか短くなったのか?今年はこの絵で年を越せるな。(画)
Dscf6252

|

浮んで香る

形が締まってだいぶコンパクトになった月の女の足先を宙に浮かせた。そしたら、それまで平板だった山に奥行きが出て、横にいる男の方は何にもしていないのにセクシーに見える。彫りながら鼻歌を歌っていた。

たくさんの〜 ほほほっほっほー♪
森の中に白く浮かぶ朴の花の歌だ。(K)

Dscf6241

|

死後の作品の行方

たまに死後自分の作品はどうなるだろうと考える事がある。ゴミになるんだとすると、つまりは世の迷惑になるものを作り続けているのが自分の毎日だということになる。そうだとしても相変わらず勝手にやり続けるのには変わりないが、そういえば死体だってそうだ、人が死ぬとその死体はやっぱり人迷惑な代物になるではないか。それで焼いたりどこかへ埋めるのだ、そのうち気にならなくなる。でもそれでいい、それでなくては。死体に価値がないのと同じで作品にも価値がなくなるのはやっぱりいいことなのじゃないだろうか。死ぬ価値がなくなれば死への恐怖もなくなるのだ。(画)
Dscf6232

|

顔と体

心と体はバラバラであっても、顔と体は一致しているものだ。姿の美しい人はやっぱり顔もいい。顔は体から生えているのだから。できるなら強い肉体に守られていつまでもやわらかな無垢を保存してほしいと願っている。壊されても汚されても最内部には届かないものだ。彼らは知らない。獲得するものだと思っている限り知りようもない。(K)

Dscf6228

|

遠近法は水平線

西洋絵画を離れて東洋や中近東の美術に興味を持ってみると、それらの絵には水平線がないということに気づく。西洋の遠近法は水平線を基準にしている。そこから一点透視方でものを捉える。そこから写真が生み出された。最近は写真を元にして写真のような絵を描く人もいるようだが写真機の目が一つなのは西洋の遠近法の理にかなっている。
ところで、西洋以外の場所、東洋中近東南米アフリカなどの古代美術には水平線がない。とても憧れるが西洋美術で遠近法を学んでしまった近代日本人の僕にはどうしてもそうは行かない。これからの人生でなんとか突破できないものか。
オルガンの位置とスケールがなんとかなりそうになってきた。でも未だ収まりが悪く感じる。(画)
Dscf6215

|

ファンタジー

子供達は知っている、雪の柔らかさや面白さを。
ウサギは知っている、今日の雪は冷たいかどうかを。

トワンがこの裏山でイノシシを深追いして帰れなくなったのは、雪の怖さを知らなかったからだ。重い湿雪は足を濡らし凍らせ、足跡も臭いもすっかり消してしまう。5日目の夜に山向こうの集落でトワンを見つけた時はほんとうに奇跡のようだった。嬉しかった。すっかり痩せた体、爪の間からは血が滲んだ。

怖い体験は知恵を授ける。あの後イノシシを遠くに見つけたトワンは一声「ワン!」と吠えただけだ。(K)

Dscf6196

|

絵を動かす

しっかりした計画の元に仕事を積み重ねて絵を完成させるというのがニガテだ。むしろ計画を立ててなどいたらいつまで経っても絵を始められないだろう。先ず始めてしまい、その場で閃いた事を何とか形にしようと頑張る。それでも煮詰まったような感じになる、そんな時は「動かす」。
カルダーがモンドリアンのアトリエであの幾何的な色面の絵を見て言ったそうだ「これらの矩形をクルクル回したりしたらもっと面白いだろうね」と。言われた当の作者は「その必要はない、既にわたしの色面たちは充分に振動している」と答えたそうだ。よくできた話で誰かの創作かもしれない。
オルガンの位置と形の比率がうまくとれなくて苦労している。とにかく「動かし」ている。色々な問題点があぶり出されてくる感じ。(画)
Dscf6195

|

離脱

昼間は自転車でアトリエに向かい、夕暮れ前に一旦家に帰って軽く食事をして、夜になってまた出かける。夜の部は車にしている。このペースになって4ヶ月になった。最近は夕暮れにガハクのギターに合わせてバイオリンを弾いたりもする。何となくそうなった。

今日は途中の歩道に散乱していたガラス片を箒できれいに掃き集めたりしたからか、顔がぐんと良くなった。限界は自分では越えられないが、今夜みたいに天使が集まってくると簡単に持ち上げてくれる。(K)

Dscf6186

|

白い人が弾くオルガン

生家にはオルガンがあって時々姉が弾いていた。保育の仕事に必要で練習していただけで音楽を楽しむという程には弾いていなかったようだ。いつの間にか家からなくなった。当時小学生だった僕は幼稚園や学校でその楽器に馴染んでいたし、それと同じものが家にあっても当然のように考えていた。足でガタガタ踏むとフガフガ、独特のビャービャー鳴る音、出来損ないの機械のような生き物のような感触を身近に思い出せる。
さて、絵の中に登場させたはいいけど遠近法と形の比率が全然とれないよぉ。(画)
Dscf6171

|

新しい顔

体に合わせて顔を小さくしたら幼い子供のようになった。野生とは思えない可愛らしい顔になってしまったが、無理に鋭くすることもない。しばらくこのまま彫り続けよう。

記憶が引き出され使われた後にやっと出て来るのが本当の顔だ。好ましい以上の新しい顔を彫りたい。(K)

Dscf6162

| | コメント (0) | トラックバック (0)

装飾的

絵に対する色々な批判の中で装飾的というのがある。元々絵は壁にかけて部屋を飾るものだから装飾じゃないのかと言ったら鼻白むばかりだが、要するに純粋芸術として劣るという事なのだろう。思うに近代絵画批評の中で装飾的というのは文学的という言い方と双璧を成しているようだ。今現在もそれほど変わってはいないのじゃないか。かのゴーギャンもそういう批判を得ていたらしく「装飾的?そのどこが悪い、美しいかどうかだけだ」と反論している。さて僕の今描いているこの絵は相当「装飾的」になるだろう。できあがるのが楽しみだ。(画)
Dscf6160

|

櫛歯ノミ

今日は気持ちに余裕があったので櫛歯ノミを丁寧に作った。ギザギザの山の形のひとつひとつにタガネを当てて整えてゆく。鉄が赤いうちにやることと、少し冷めて黒ずんだ時にやる仕事は違う。延ばして成形する時と、部分的に切ったり削ったりする時だ。やっとコツをつかめた。

よく切れるノミで月の女の顔を彫り直し始めた。見たことのない顔が出てきた。(K)

Dscf6155

|

不死と永遠の生

晩年のルノアールが若い頃に比べ短時間で絵を仕上げるようになったのは、老年になって残された時間の少なさを意識したからだという評論を読んだことがある。自然に思える説明だが、個人的体験からこれは違うのではないかと思っている。
学友にクロチャンと呼ばれていた人が渡欧してドイツで暫く作家活動をしていたが、現地で末期癌を宣告され帰国した。驚いたのは、余命いくばくもないと言われた彼の、帰国前と帰国後の作風の余りの違いだった。一言で言えば、短時間で仕上げるような瞬間的な衝動を基にした作風からひどく手間と時間のかかる仕事への変化だった。ボーボワールの小説「人はすべて死すべし」の中に、不死という運命を生きる主人公がその人生の長きに渡って実体験した歴史を著述するように勧められても意欲が湧かず、そんな事は死すべき人間がやることだと言うような話が出てくる。これクロチャンと同じ?人は死を自らの真近に見た時、ありえない永遠の生を願って短時間で素早く仕上げるより永く描き続ける(永遠の歴史を著述する)事を選ぶのかな?僕も今いくら時間かかってもいいから一枚の絵に付き合うぞという気分になってるのはそういう訳だろうかね。(画)
Dscf6143

|

小さな夜空

水が泥色だからと蛇口を全開にしてしばらく野原に放出していたら、急に出が悪くなった。もう暗くなっていたけれど懐中電灯を持って水取り口のある沢に出かけた。沢も枯れてはいなかったし、タンクにちゃんと水は注ぎ込んでいたので安心して来た道をまた戻ると、目の前に冴え冴えとした三日月と満天の星。(K)

Dscf6126

|

絵の中の季節感

枯葉が積み重なって濡れた道を散歩していると、頭上からジュルルンジュルルンと鳴き交わす声が聞こえてくる。葉のすっかり落ちた木々の枝から枝へと飛び回るエナガの少しピンクがかった黒っぽい姿、また冬になったという実感がする。また季節が一巡りしたなと思うのは12月のせいだろう。季節といえばそれを特に感じながら絵を描いたことはないが、一枚の絵を長く描いていると季節がいつの間にか移っていて絵の中の色や何かがその影響を受けて変わっているということはありうる。あまり気にしていないが、きっとそれはいいことなのだ。(画)
Dscf6122

|

取り戻された野生

最初にあったものが再び取り戻されて初めて汚しようのないものになる。庭のリンゴの木に花がいっぱい咲いた日のことを思い出しながら彫っていた。車を降りた時は満天の星だったのだけれど、帰る頃は雲に覆われていて星は見当たらなかった。鹿の声が聞こえて来た。(K)

Dscf6116

|

幸せな人生

馴染みの画材店から年末恒例の絵入りカレンダーが送られてきた。猫が絵の中にいるという事で6枚の「名画」が載ってた。つまらん絵ばかりだった。冒頭ページのルノアールはきらびやかな色彩と穏やかな画風で誰もが好みそうな絵だが、よく見ると人物の顔はつるつるペッタンコで面白くない。マネに画才がないって断定されてたらしいがこんな所にも因があるのかな?それにしても有名になってお金持ちになって家族も裕福で幸せそうなルノアールの人生。それに対比するとどうしてあんなにゴッホとかゴーギャンとかモジリアニとか家族も理解者も少なく孤独な生活を強いられて酷く不幸だったのかねえ?彼らの絵の素晴らしさは彼らの不幸な人生と引き換えだったのかねえ?神様お答えください。(画)
Dscf6110

|

« 2016年11月 | トップページ | 2017年1月 »