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2016年11月

正面から挑む

わずかに腰をずらして彫ってあったのだけれど、今夜まっすぐ正面から見た姿勢に彫り直した。先端の膝小僧からじりじり少しずつ慎重に奥に向かって。

こういう何でもないように見える場所が最も困難だ。途中疲れてソファで10分仮眠。夢の中でガハクに助けを求めていた。彼が触れると元気になるのは夢の中でもいっしょなんだな。スッキリ目覚めて続きを彫った。「太陽があるうちに歩きなさい」という言葉がぴょんと浮かんだ。(K)

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ノイズ

現代音楽で使われるノイズという話。絵でも同様のことがある。古来シャープな線や混じり気のない鮮やかな色彩に始まった絵画は、後にそれをぼかしたり混色して灰色の階調を生みだす。抽象的で象徴的な形から感覚的リアリティの追求、光の表現として画面がチラチラし始める。こういう曖昧さこそそノイズではないか。今でも勿論絵から輪郭は消えていないし抽象も象徴も物語さえも残されているが、感覚の追求は今でも絵画表現の根幹だ。一度ノイズに気づいた僕らはその効果を捨て去ることができない。感覚にあまりにも馴染みすぎる。(画)
Dscf6102

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遠ざかる蝶

漆黒の宇宙に向かって飛んで行く蝶を月が横から照らしている。羽根の角度を急にしたらハートの形は崩れてV字になった。わたくしは確信している。きっと彼は目的地に到達するだろう。降り続く雨に重くなった羽根をずっとはためかせて来たのだから。冷たい雨を甘い水の流れに変えて地上に注ぎ続けて来たのだから。(K)

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新しい画布

新しい絵をしずしずと描き始めた。といってもテーマは「Mの母子像」ということで、何枚目になるのだろう。謂ば集大成のようにこのテーマで描いてきて気づいたことを網羅できたらと思っている。100号という画面サイズでは一番大きい。中央の赤ん坊から描き始めた。今までの絵ではいつも一番最後に描いていた部分だ。今回はここから始めてこの部分にこだわりつつ十分に描き上がらないうちに他の部分へと惰性に流れないようにしたい。(画)
Dscf6091

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ハート型したボルケーノ

ここだけ深彫りにしようと彫り出したのだが、なかなか底に届かない。少し疲れたので離れて眺めていたら、ぼうっと浮かび上がったハートが漆黒の空に飛び立つ蝶になった。蝶の背中に落ちた雨が集まって小さな流れが始まる。粘液性でうねりながら滑り落ちていく。山は要らないかもしれない。宙に浮かそうか?(K)

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11月の降雪

芸大の受験初日は東京では珍しく大雪だった。いつもなら下宿から池袋駅まで歩くのにその日は雪道に慣れないから一つ前の私鉄に乗った。朝のラッシュが想像以上で構内では脇に抱えた大きなカルトンで身動きがとれない。必死でようやくたどり着いたと思ったホームで色が似ていただけで違う電車に乗ってしまった。大幅に時間をロス。さらに上野駅から大学の門までの緩い坂を底の平らな靴に滑りながらガードレールに掴まりつつ這いずるようにして登った。半分ベソをかいていた。完全に遅刻。そして受験場に入ると、石膏像を今まで描いたことのない位置から描くようになっていた。うまく形がとれなくて酷く苦労した。いつもの調子と全く違っていた。合格したのはそのせいだろう。雪の日の思い出でした。
(↓画像はイメージです。本文とは関係ありませんw(画)
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真実はザラザラとしている

「真実はザラザラとしている」とシモーヌ・ヴェイユが書いていて、確かジョットの絵を見てのことだったと思うが、実感を伴った発言にビクッとした。ちょうどその頃彫刻の仕上げの表面処理について苦心していたからだ。磨くと消えてしまうノミ痕にはたくさんの情報が残されている。

「雨はまっすぐに落ちて来るだけじゃないよ。よく見るとあっちこっちに飛んでいるんだ」とガハクに言われて彫り直してみたら、美しい陰影ができた。思いついたことは必ず実現できる。雨も彫れたのだから。

今は見せるためより見つけるために彫っている。(K)

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モノクローム

習いたての頃、チューブから出してそのままの鮮やかな色ばかりしか使えずギラギラした絵ばかり描いていた。調和も趣味もない無節操なだけの絵しか描けず苦しんだ。中間色がわかるようになってやっとそんな段階を越えて人心地ついた思いがしたものだ。勉強が進むと次は灰色に興味を持った。灰色の美しい絵ばかり探して見ていた。そして灰色の使い方を自分なりに掴めたと思い始めて自信が生まれ余裕を持って見たら、全ての絵画は灰色の調子を持っているではないか。単一色のモノクロームとは決定的に違う多彩なモノクロームが絵の秘密の一つだと分かった。(画)
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夜うさぎ

アトリエから道に出た途端、ヘッドライトに照らさし出されたのは小さなウサギだった。その逃げて行く姿に惹きつけられた。右に左にとジグザグに進みながら逃げるのは、敵をはぐらかす為に身に付いているウサギの習性なのだろう。

暗闇に消えた後もしばらく頭の中の残像に向かって「かわいい〜かわいい〜」と叫んでいた。無垢を表象するものに直に接触すると最内部で化学変化が起きる。

しなやかで軽やかな野生の動きを忘れないようにと、家に着いてすぐにノートに描いた。(K)

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恐怖

「恐怖」と題されたルドンの銅版画がある。岩だらけの風景の中に騎士が一人、たじろいでいるような姿勢で描かれている。たじろいでいるのは人なのか馬なのか、僕には馬の鋭い感覚が感じとったと思えるが、定かではない。「恐怖」と言われて改めて見ていると気味の悪い感じがじわじわと湧いてくる。「恐怖」の対象が何なのかは描かれていないが本当に気味が悪い。ルドンにはそういう面があると書いている人がいた。僕の絵のこの人物も何かに怯えて逃げようとしている。その対象は上方に見える白い旗なのだが、描いてあったその旗を意図的に消してみた。どうなるか試している。(画)
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夜間飛行

森を覆うほどの大きな翼が月に光っている。空を真横に滑るように飛んでいるのは月に向かっているからだ。彼なら大気圏の外にだって行けるだろう。

翼の水平角度がうまく行って奥行きも出た。影が美しい。鳥の顔が猛禽類にならないように気をつけている。目と額の角度、くちばしの形が大事だ。森の木々が月に輝いて見えるように空は暗くしよう。(K)

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観念の遠隔対象

「若い時はとんでもない高みを志向するものだ。経験を積むに従い身の回りの近い所に独創性や個性を発見する」と吉本隆明は書いていた。そう言われれば確かに僕も若い頃はミケランジェロとかジョットとかセザンヌとかジャコメッティとか…天才以外に見るべきものはないと思っていた。今ではすぐ横に又は近くに驚くべき才能を見出すことがある。ところが今の日本では明治以来の欧米追随、政治でも美術でも欧米にベッタリと張り付いてそこから価値を担保されるのを良しとしている。NYの地下室で絵を描くニホンザルの得意顔といったら。。)そして我も我もと後追いは続く。僕は全然別の場所で同志を見つけるよ。じゃあね、さいなら。(画)
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月に照らされて

いつも見ているものがその人を作る。この人はいつも月を見上げているから月の光に輝いているけれども、彼自身は自分がいつも照らされていることを知らない。

頭髪に光が集まるように輪郭を深く刻んだ。目の中に月を彫った。(K)

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描く人見る人

ゴヤの黒い絵の陰惨さにいつまでも引っかかっている。どうして彼は自ら描いたとはいえあんな壁面に囲まれた毎日を食べたり寝たりして暮らせたのだろう。世の中の悲惨さを人知れず告発して溜飲を下げていたのだろうか。自己処罰なのだろうか。またあんな絵でも見ていると元気になるという感想もネットにあった。驚くべきことだ。
『白い旗』の左側部分を描き直した。イメージの扱い方にゴヤの影響が出ているような気がする。(画)
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永遠ではない美

夜の9時に突然ゴーッと大きな地鳴りがして、アトリエの屋根と柱が細かにぶるぶるっと振動した。地震かと身構えたが、突風のようだった。今外に出たら空にはきっと大きな月が出ているのだろうと思ったけれど、我慢した。雨と光の交錯する線を彫り上げるまでは今夜は帰らないと決めていたからだ。

海に注ぐ雨と光。労働の苦痛に想念の愉快が勝るまでにだいぶ時間がかかった。

灯りを消した暗い中、フォークリフトと一輪車の間をすり抜けて外に出た。正面に月が輝いていた。68年ぶりの大きな月、次回は18年後だ。楽しみに生きていこう。(K)

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ゴヤ

ちょっと確認したいことがあってゴヤの戦争を主題にした版画と最晩年の黒い絵シリーズをネットで見ていたら気分が悪くなってしまった。尊敬する画家ではあるしほとんどの絵も知っていたはずのものばかりだったのに今日に限ってはなぜか表現の陰惨さが心に突き刺さるようだった。あそこまで描かずにおれない画家の心境こそ過酷すぎる。自分の絵を眺めて気分を直した。(画)
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シンフォニックに石を彫る

雨を前面に出していたのだけれど、光を優先することにした。垂直線を斜めに遮断する円弧。光と雨の間をくぐり抜けて行く風がぼんやりと浮かび上がる。そのもっと奥にある森まで彫れるだろうか?水も光も風も真理だ。温かな熱はどこから来るのだろうか?真ん中にいるふたりと一匹にはどうやっても生き延びてもらわなければならない。(K)

Dscf5947

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空を描く

全体に暗すぎると感じたので空をうんと明るくしてみたらこの方がずっと奥行きが出た。説明するというのではなく、絵を観る者がそうとしか感じられない何ものかを出せるまでその絵を描き続けねばならないと思った。ルドンの銅版画を見た時に感じたものを明瞭に言葉にするのは難しい。なぜ惹きつけられるのかも謎だ。あゝいう雰囲気を出す為にはっきりとした理念とか根拠が画家にあるのだろうか。おそらく彼の手の先に現れたものを良しとして残したに過ぎないのではなかろうか。(画)
Dscf5937

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祈るふたり

この彫刻の横に子犬のトワンが写っている写真があるから、12年前に彫ったのだと分かった。90パーセントまで彫り進んで、その後最後の詰めが分からないまま磨き上げていいのかと正直に考えたのだろう。

顔から彫り直し始めた。あの頃は見えなかったものが今はよく見える。腕もずいぶん上がっている。ノミの角度を正確に石にショックを与えないようにしながら目を刻んだ。瞑っているより開いている目の方が好きだ。

「いい彫刻になりそうだね。売れそう」ってガハクがトワンと眺めてくれた雨の日の朝。(K)

Dscf5916

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空の色

雲をうまく描けないと書いたことがあるが、空も未だこれといった明確な描き方を持っていないので難渋することが多い。古典を見るとあゝそうか昔もこんなだったのか、今もこんな風な空が僕らの上に広がっているよと言いたくなるような空が描かれている。空を明快に描ける人が羨ましい。雲もそうだが空への感受性というのにも人によって優劣があるに違いない。(画)
Dscf5908

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明るい鳥

川に沿った道を自転車で走っていたら、川面から突然サギが飛び立った。アオサギだった。少し先の河原に舞い降りてはまた飛び立つ。そんなことを数回やって、やがて森の影で隠れて見えなくなった。

あんなに大きな鳥が人間のすぐ傍で生きているなんて素敵だ。こっちのことを警戒しながらではあるけれど、そんなに迷惑してもいない様子。こういう関係は長続きする。

サギが飛んでいる時、あの長い首を二、三度折り畳んでカクカクしたシルエットになるのが面白くて、いつも見上げながら記憶するのだけれど、上手に描けたためしがない。そうだ!レリーフの鳥をあんな風に彫ってみたらどうかと思い立った。

月の鳥はトワンのように生き生きとしている。(K)

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森を見て木を見ず

「木を見て森を見ず」という戒めは絵には通用しない。何でもありなのが絵ではあるが、樹木を描かずにどうやって森を描くか…当惑してしまう。不可能ではないとは思うが非常に抽象的で「難解な」主題だ。細部こそ絵だと言えなくもない。先ずは木を描く、そしてそれが森になるかどうか…山になるかどうか…。知ったことではないが、山を見て木を見ずとなっては意味がない。(画)
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雲の翼

トワンの背中の雲の翼がやっといい感じになった。こういうどうとでもなる形を必然まで持っていくのが私は得意なのだ。長いこと抽象形態で勝負していたからで、これを昔取った杵柄というのだろう。耳の上空にとまる光もいい具合になった。

山は海から生まれたのではなく、最初に山があって後で海が出来たという風に彫っている。(K)

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母の顔

「母の顔」という抽象的な顔というものがあるだろうか。前回の記事に書いた誰かのような顔として見ればこの顔も間違いなく妻なのだが、今日は僕の母のようでもあるなと思った。絵としては古い記憶の中の顔になっている所がいい。荒れた絵具の表面がその効果をもたらしている。(画)
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生え出た山

今夜、山が海底まで届いた。透き通った水の中の陰影のつけ方と、水の表面の光る波の彫り方を発見した。荒れ狂って山に這い上がろうとする海は右側に。これは山の左側の優しく触れる湖水だ。月がすぐ近くで漂って遊んでいる。(K)

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誰かに似てきた

『Mの家族』の母子像の一枚。今日はこの子を描いていた。地味な服装を改めて着飾らせてみたら誰かに似てきた。Mの家族は妻の古い家系の物語を絵にしたものだから当然なのかもしれない。(画)
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山よ海に入れ!

山が海に落ちるのだと思っていたが、そうではなかった。山が自ら入るのであればそれは罰でも堕落でもなく、試練でもない。「光はあまねく行きわたる」為に山は水の中にも入るのだ。崩れて落ちる山もあれば、海底に屹立している山もある。

水を押し分けて進む船のようにも見えるこの山を
たった今、海から生え出て来たばかりのように彫りたいのです。(K)

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描きこむ

「描き込む」の意味を訊かれて返答に困った事がある。野球ではバットを振り込むなどと言うが打撃練習に集中するという意味でも使うのだろう。猛練習の代名詞みたいなものかな。美術学生の頃には周囲でこの言葉をよく聞いた。時にはキャンバスの重さを比べて乗っている絵具の量で描き込みの量を計ったりした。余りにも単純な計測法だが美術の学生らしい思いつきだ。
「すなどる人」の空の色を変えた。今まで使わないような色にしてみた。するとその下の森も動き出さざるを得なくなった。この絵は同じサイズの他の絵と比べるとかなり重い。(画)
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踊るピアノ

働きかけるものと働きかけられるものの間に一致がある場合は両者はふたつで一つ。どっちから彫っても必ずいい形になる。ピアノとピアニスト、右足と左足、右手と左手の光を楽しみながら彫っている。

今夜は水の中に月を彫った。深く暗く静かな夜の海に降りた月は、水の底まで沈んでみたりまた浮き上がったりして遊んでいる。(K)

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着るもので色も変わる

友人から貰ったこのシャツ、最近仕事着として重宝している。ベトナムに住む山岳少数民族の伝統的衣服らしい。刺子で柔らかく袖も大きくて着やすい。一番気に入っているのは色だ。しかし以前の僕なら絵を描く時に着ることはなかったと思う。昔ある先輩画家が「真っ赤な車なんかに乗っていい色の絵が描けるわけないよな」と言った。その頃は確かにそう思っていた。画面の色に影響を与えないような色、黒とか白又は灰色系、柄はできるだけ刺激的でないもの…とか、要するに中立的な服装をしただろう。しかし今や正反対。自分の色に引きこもりがちな老いた画家にはちょうどいい。予定調和を破壊してくれる。(画)
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