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2016年10月

羽化するピアニスト

月の光が届く範囲がどんどん拡がっていて、輪の外でたった一人だけ着衣だったピアニストもとうとう裸になった。そこでは人はそのままの姿で生きている。恥ずかしいとかいやらしいとかいう意識は存在しないからだ。彼が見つめているものは自分じゃないからだ。自意識のない世界の無垢に宿る光をピアニストの指先に集めた。(K)

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森を通って川へ

道を赤く塗ってみたが上手くいかない。全部消した。肝心な事は、ここに道があると示すのではなく、川に降りたいと思った人がそこへ至る道を森の中に見つけることができた。要するに森を描けばいいのだと気がついた。その隙間を塗ってこの絵を見る人は川へ降りていく。コローの風景画を思い出していた。(画)
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霊界のピアニスト

水の中にも月がある。波立っていない海をどう彫ろうかと考えながらピアニストの頭部をいじり始めたら出て来た姿がこれだ。

音楽家が残した曲をときどき口ずさみながら彫った。最初はガリガリに痩せた顔で、目をつむっていて、頭もスキンヘッドになった。それでも彫り続けたら、顔がだんだんふくよかになって行った。月に照らされた顔がとても綺麗なんだ。(K)

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何を新しく描こうか

白い画布を眺めているだけで未だ描き始められない。いくつかのテーマは既にあるし、小さな絵を下敷きにしてそれを元にもっと大きく描きたいというのもある。暫く新作を描いていないのもあって始めるしんどさを感じてもいるが、この描き始めの躊躇には意味があると思って焦らないようにしよう。
『川に下る道』画面が明るくなってきたのはいい傾向だ。以前友人が贈ってくれたタルコフスキーのポラロイド写真集を思い出した。あの自然観人生観にはひどく惹きつけられたのだった。(画)
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海を彫る

海の底へ向かって色が少しづつ変化し、だんだん暗くなって行く様子を彫りたいのだが、深く抉れば抉るほど石板の最下辺のところでどうしても明るい面が出来てしまう。その明るさはまるで渚だ。

三つの層に分けようと波の連続模様で海を区切ってみたが、深さは出ずに影がくっきりするばかり。でもこの影はとても綺麗だ。あの波間にときどき垣間見る深い色をしたぬるっとする怖さのことを思い出す。

最近船の中で飼われている子猫の目に映っている船乗りの姿に気が付いた。可哀想になった。猫よりも船乗りの方を。(K)

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新作

今描いている小さな室内風景が気に入ったので、この調子でやればずっと気にしていた過去の大きな室内の絵を描き直せるだろうと奥から引っ張り出してみた。しかし思ったほどには悪くもない、というかこれをもっとよくする具体的な案が閃かなかった。また元へ戻した。
前の作品を描き直したいという思いが年々強くなっている。自分の過去を書き直したいという誘惑に取り憑かれているみたいだ。新しい絵にとりかかるのがしんどくて回り道を選んでいるのかもしれない。自分の過去を書き直したとしても恐らく同じ今の自分に出会うだけだろうに。新しいキャンバスにとりかかるべきなのだ。(画)
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奈落の暗闇は段階的で

奈落の暗闇は段階的でその暗さに応じて三層に分かれているそうだけど、今夜いよいよその地下の空間に取り掛かった。暗い海にうごめく黒い波が彫れるだろうか?逆層になるように深く抉ろう。

『白い人』の谷から流れ出した水流は、女の手の先で風の流れに変化して光の輪の外に出た。そこで雨に打たれると大きな虹の輪になるんだ。

まっすぐ落ちる雨を彫るのが一番難しい。地上すれすれに浮かぶピンク色の霞はやわらかなフォルムにしよう。(K)

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気に入った場所

気に入った箇所というのが一つでもあればその絵はそれで満足だ。絵全体の構想や色彩や描かれた形など全てが満足いけば申し分ないが、そこまでできるには技術とイメージ力とさらにはある種の幸運も必要だろう。この人物、なんでもないようだが気に入っている。もっと大きな画面でやりたくなった。(画)
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目が進む

好きなものを好きなように気に入るまで彫っていられるというのは幸せだ。こうやって5日間もトワンを彫り続けていると、昨日やったことは今日の為にあることが分かる。昨日は限界までやって満足して道具を置いたはずなのに、今日はそれじゃ満足できない。1日で目が進んで次の要求が内部から出てくる。彫り直すべき形が石を上に浮かんでくる。そのままにはしておけない、内的欲求には応えなければならない。

私の意識の中に住むトワンは人間よりもずっと柔らかい。(K)

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花を摘む

一枚の絵をずっと描き続ける事が最近できないでいる。うまく行かない時に気分を変えたくなって別の絵に向かうということは以前からよくあったのだが、最近ではうまく行っていると感じた時ほど別の絵でもこの感じを試したくなる。いつも新しい発見がなければ絵を描き続ける意味はないとはっきり分かった。(画)
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新しい彫り方

今日もトワンの彫り直し。耳の向き、向こう側の目、前脚の関節、鼻梁の長さ、頬のねじれに新しい発見があった。新しい彫り方を見つけた。ここまで来るのに三日かかった。

だいぶ細くなって来た脚をジリジリと少しずつ修正していたら、自分の脚までイライラして来た。乳酸が溜まったのだろう。安全靴の足をバタバタ地団駄踏んで鎮静化。

疲れてくると体温が上がって息苦しい。防塵マスクをずらしたら口元がチクッとした。マスクの中のスポンジシートをめくったら、マッチ棒くらいの小さなムカデがいた。棒で突いてやっつけた。マスクは常に柱に吊るしておいた方が良さそうだ。

アトリエも冬支度。高いところにある窓にアクリル板を貼って二重にした。閉め切っていてもそこからは月が見えるんだ。夜の10時、外に出たら東の空からちょうど月が出てきたところだった。いつも見ているお月さん。(K)

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悪人正機

解剖学を知ればモデルを見なくても自由に人物を描く事ができると思っていたが違った。解剖学など知らなくても人体は描ける。風景を見なくても風景画は描けるし静物を見なくても静物画は描ける。もともと「絵を描く」という事は「自由」な行為そのものなのだ。それを勝手気ままと言う人もいたし下手も絵のうちと言った人もいた。絵の世界の懐は深いのだ。逆に、規則に縛られ技巧の限りを尽くしたとしても絵になるぐらいですから、と言えば悪人正機説みたいでその方が正しく思えないだろうか。(画)
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ブロッケン山

二十歳の頃、赤牛岳の頂上でブロッケン現象というものを初めて見た。太陽に照らし出された山や人の影が霧に投影されるのだ。面白くて皆で手足をバタバタ動かして中空に映る自分らの姿を楽しんだ。奇妙な姿が空で踊っていた。

そして今年になって初めて読んだ『ファウスト』にブロッケン山が出て来た。実際にその名の山があるのだけれど、ゲーテはそこを舞台に繰り広げられる魔女たちの饗宴を豊かに描いている。それは思ったよりもグロテスクでもなくて地中の燃えるマグマをメタファーに使っている。

月の女が降り立った山の向こうにもう一つピークを彫った。幻影の山だ。(K)

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のろのろ描く

イタリアルネッサンスの巨匠達のエピソードとして(例によってバザレリがそれらしく脚色したのだろうが)作品を仕上げるのに素早く描く方がいいかゆっくりやった方がいいかという議論があったと。ダ・ヴィンチに聞いたら素早く描ける技術はそれだけで賞賛に値すると答えたが、ミケランジェロは同じ価値の作品ができるなら速い方が腕はいいだろうが、その人がもしゆっくり描いたら今まで誰も見ることのなかったものが生まれるかもしれないと答えたと。よくできた話だ。巨匠二人の性格や思想性まで出ていて感心する。
さて僕は最近わざとゆっくりのろのろと描く。その方が色々な事に気づく。仕上げを焦らないというだけで色々な着想も湧いてくる。小さな筆でちょこちょこ…昔なら先輩方がやってはいけないという描き方で描いている。(画)
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満月の下で

車から降りて畑に近寄ると、白菜のロゼッタが月明かりではっきり見えた。今夜は満月だ。虹の輪がかかっていた。ずっと月の男の眼を彫り直すタイミングを見計らっていたのだが、今夜がそうだ。

霊達は主の眼を見つめ、主は額を眺め返されるそうだ。目に真意を探ろうとし、額に意志の強さを見る。口元には性質が出ている。情愛の形だ。冷酷さも情熱もそこに現れる。新しい人を彫り出そう。(K)

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借りもの

ある日のわが家の情景を描いたこの絵。大きな画面に日常の風景を描いたのが20年近く前で、その絵の右半分は「キッチン」という絵になったのだが、左半分が今のこの絵になった。銅版に彫ったのもある。机を前にして座っている人物が始めは僕自身だったがそれを妻にした。上着を脱ぐポーズは、フランドルの古い宗教画とフォートリエの絵からヒントをもらった。元々生活の情景を主題にしたこと自体がアンソニーグリーンの一連の仕事を見てからだ。他にも無意識に真似をしていることはたくさんあるだろう。僕の絵には借りものがいっぱいだ。(画)
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森の中に降る雨

レリーフの左側に光の棒を彫っているから、右側のここには水の棒を彫ろうと思い立った。光りながら落ちてくる水の束を彫る。縦に襞をたくさん入れてみることにした。

空から垂直に落ちてくる滝のようなこの雨は、激しくても美しく優しい。透き通った水の中に光をたたえている。森の梢は雲のようにも見える。水も光も真理を表象しているのだそうだ。

今日はフォークリフトの点検もした。前の野原をぐるぐる走り回って、エンジンの調子を見るのだ。そして広場の真ん中で爪を上げたり下ろしたりチルトアップダウンを繰り返す。キュルキュルキュルと異音がしたが、ファンベルトが古くて撓んでいるからだろう。フォークも私もまだ大丈夫!使える。(K)

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絵は動く

描き直している。修正なのか描き加えなのか分からないが多分両方。描画法の細かい発見が色々あったので試してもいる。イメージを忠実に再現する為に技法があるのが当然なのだが、実際に絵を描いていると描き方の発見が新しいイメージの喚起に繋がる事の方が圧倒的に多い。うまくいかない時、何度も初めからやり直そうとするのはある意味自然で当然なのだがそれでもできない時は、新しい描き方を試してみようとするとそこに何かが動く。絵がうまく行っている時というのは、その動きが繋がって完成に向かって行くようなそんな感じの時だ。絵は常に動かさなければいけない。(画)
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浮遊体

葉っぱが曲がったり捻れたりしてその裏側を見せている様子をどうやって描くかを教えてくれたのは母親だった。あれは小学生で少し絵が描けるようになった頃だったろう。絵の中で起こる事に目を見張って見つめたものだ。輪ゴムのねじれや紐の結び目を描くのを愉快に思うのも同じだ。あの時の感動に根っこがある。当たり前じゃ無いんだ。手の下から出て来て初めて事実として存在として理解できるんだ。

浮遊物体を彫りながらまた別の事も思い出していた。
「あんたのギターなんかこんなもんよ」とテーブルの上にあったティッシュの箱から一枚抜き取りサッと空中に放り投げたある音楽家の妻のこと。20年前のシーンだ。もうとっくに別れただろう。霊には名が無い。だから名を求めてもがくのだろう。

愛しく可愛いものにはすべて名が付けられている。またきっと会えると信じてもいる。こういうことが毎日石を彫る力を与えてくれる。生命力はどこから湧いているかもう分かった。(K)

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後ろ姿

川へ降りていく人物。犬も向うむきだ。
ユトリロの初期の絵に出てくる人物はほとんど後ろ姿だという。画集で見ても奇妙にも街を行く人々が皆パターンの如く後ろ向きに描かれている。その理由の解読は批評家や心理学者に任せるとして、彼が不遇な時代を抜け、売れっ子でリッチな有名画家になるに従い画面にも前向きの人が現れる、なんて説明は事実なのだろうか?ある無名画家が突然世の光の中に輝きを持って現れたとみてとると、人々はそこに凄惨で猥雑で滑稽な心理劇を見ようとして襲いかかった。それは芸術家にとって最高に不幸な時代だったのだ。どこにも光が当てられない今の方が芸術家にとってはむしろ幸せな時代なのかな?(画)
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光の輪郭

休日の夜に彫り始める時の最初の一打は気がひける。窓や戸を閉め切っていても、こんな山の中であってもだ。でもすぐに集中したからそんなことは忘れてしまった。

今夜も鳥にずっと惹きつけられていた。光に包まれた真っ白の雲が見せた鳥の幻を追いかけている。鳥は鋭く繊細だけれど、ほんとうは柔らかいのだ。鳥という形を求めるのではなく、光を彫ればいいのだということに気がついた。形の輪郭ではなく光の輪郭を彫る。(K)

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猫とか犬とか

我が家で飼い始めた動物は最初は猫だった。拾い猫、迷い猫、生まれた子猫、みんな黒猫だった。最後の13歳まで生きた雄猫だけが油絵になっている。一枚だけ。その猫が死ぬ直前に迷い犬を飼い始めた。やがて子犬が産まれ、皆貰われていった。そのメス犬が老いて死んだ後、人の紹介で捨て犬を引き取ることにしたのが今の犬だ。振り返ってみれば猫が我が家のペットとして現れてから家に動物のいなかった時期はほとんどない。ところで猫に比べると犬の絵の方はずっと多い。版画にもなっている。特に今の犬はかなりの頻度で作品に登場している。彼からは多くの霊感を貰えるのだ。(画)
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逆さの足

月の人たちのステップは愉快で軽やかだから、地中から押し返してくる逆さの足のステップも優しい。作用反作用。因果応報。人は結局見たいものを見、聞きたいものを聞くことになる。

嫌だったものからすっかり離れたら新しいものが現れた。今夜はトワンの顔を彫り直した。いい形からはスーッとしたエーテルの匂いが立ち昇る。(K)

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失敗作

やるべきことがはっきり見えない時はとにかく描き込む。ものの形や位置や色を修正する。そうやって何かが出てくるのを待つ。正直に言ってしまえばそういうことだ。後から見て無価値なこと、あるいはそれを通り越して有害なことだとしても、躊躇する理由がなければそうしなければいけないと経験が言う。失敗作というのはその作品を結果から見るひとつの見方でしかない。描く時間の中でもっと多くのものを画家は見てきたのだ。(画)
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弾む足どり

山道を登っていて、全く疲れを感じないでスイスイ登って行ける時がある。そういう時は天使が足を持ち上げてくれているからだそうだ。月の光に照らされたこの犬も楽しそうに登って行く。その影も光っている。地中から押し返す光る4本の可愛い足を彫った。トワンがいつも弾むように、踊っているように歩くのは天使が彼をいつも支えているからなんだな。天使のようなトワンには天使がついている。(K)

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ある色への偏愛

絵を描き始めてから、漠然とあったある種の色への偏愛とかこだわりというものが消えた。全ての色が絵を構成する条件として同じ価値を持っていると思えた。それは色を扱う表現者として自然なことだったかもしれないが、同時に寄る辺もなくなったと言える。一時期灰色に特別な根拠を持ったと感じた事もあったが今ではそれほどでもない。むしろ未だに使えない色がたくさんあり、使おうとしながらも途方に暮れる色がいくつもある。赤はその中の一つだ。(画)
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光の溜まる場所

スッと地上に降りた足先の形とその位置が決まった瞬間、彼女のまわりに光が溜まっている箇所が幾つかあるのに気が付いた。肘と、頭の側面、両脚の間だ。その流れ込む光を黄色の蛍光色の鉛筆で急いで描きとめて、平ノミで印に沿って抉るように削った。そしたら彼女の体は逆に浮き上がって見えた。自ら下るものは挙げられるという法則通りだ。

円錐形の稜線には光の帯を、山の中には影を刻んで遊ぼう。(K)

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「川に下る道」つづき

セザンヌに「首吊りの家」という題の絵があったのを思い出し、画集を引っ張り出して眺めた。クールベに傾倒していたと言われている頃の絵で厚く絵具が載せられている。全体にグレーが基調で(画集ではそう見える)明るくはないが特に陰惨とかそんな雰囲気はない。いくつも家が描かれている中で画面中央にある家が縊死した人の出た家なのだろうか。特にそんなものを伺わせるようなものは何もない。しかし絵の題名から若い(30代らしい)画家の野心が垣間見えるではないか。展覧会で人の気を惹こうとして付けられた題名としか思えない。だからこれは反則だな。セザンヌでも凡庸な時代があったということだ。安心しようw(画)
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エロスの品位

好奇心にあふれた人と話した後にずっと残り続ける活気、伝わって来た知性と奥行き、そういうものを上品さと呼ぶのかと今夜理解した。感覚的で触覚的な領域は表層的ですぐにも忘れ去られるものだ。意識された知性的領域は言葉と共に長く刻まれるが、それも強烈な刺激に出会うと頽廃する危険を孕む。実証的な正確さで何度も試されてやった残った線だけがエロスを通り抜けて美に至る。(K)

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「川へ下る道」

時々手を入れる度に難しくなっていく。絵の中の空間の形がつかめない。輪郭線をはっきり入れてみた。輪郭線というのはカンディンスキーが言った通りで絵の中では面を表す。又はゴーギャンの言葉では色のマスを決定する。それにしても複雑な入り組んだ空間を描き表す力がいりそうだ。風景画らしい風景画はどこかへ行ってしまった。それどころではない。(画)
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顔から体へ

今までにない新しい顔が彫れると、体も新しくなるようだ。顔からだんだん下に向かって彫っている。今夜は腰の辺りをずっと彫っていた。足先まで急いで彫り切ろうと頑張ったが、何とかシルエットを出した所で時間切れ、道具を置いた。

夜の9時。寒くなったのでチョッキを羽織ろうと手に取ったら、緑色のバッタがとまっていた。動かないのはバッタも寒いのか?よく見ると後ろ脚が片方短い。もしかして、さっき草刈りした時に私の鎌で切っちゃったのだろうか?少し寂しくなったが、野原にポンと放り投げて忘れる事にした。

バケツの水じゃなく、今夜は野原の蛇口の所まで行って顔を洗った。緑の山も青い空も白い雲も黒とグレーのシルエット。(K)

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