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2016年9月

スケッチをする意味

スケッチブックを開いて以前のデッサンを眺め手直しをしたり描き加えたりする。時には油絵や版画のアイデアにもなるが、多くは何の目的もなくいたずら書きの延長のようなもの。何か閃いたりする事もあるけれどそれを狙ってするわけではない。面白いからやっている。しかし手が楽に動くようになると頭の動きもスムーズになるのが分かる。反対に油や版画になると構えてしまったり、多くを求め過ぎて初動の軽さがなくなってしまう。手の動きと心の動きを一致させるように常に気を配っていなければ。(画)
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羽化

知っているだけのことなんか顔の上に塗りたくった化粧のようなもの。何度も考え実行してみてだんだん中まで染み通り、いつの間にかその人のものになるんだ。ここをこうしたいと思うだけで、形が見えて来て、何とか彫れるようにもなった。

女の右手を彫り直した。肩の硬さも取れてこの方がずっと自然だ。円の中央の空間にすっと降り立ったようにしたい。彼女に蝶のような薄くきれいな羽を付けてあげたい。(K)

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絵の夢の中

描いている途中で床に寝転がり絵を眺めていたらいつの間にか眠っていた。目が覚めた途端自分が今どこにいるのかが分からず体の位置も掴めない。空間に歪みができたみたいに頭がグルングルンとした。イーゼルに掛かっている絵を見てやっと自分を取り戻したが、絵がさっきまで見ていたものと違う。どうやら夢の中で絵の続きを描いていたらしい。というよりもこの絵の夢の中にさっきまで自分がいたのだと思い出した。(画)
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静寂

光は直進しどこまで行っても平行だ。しかしここは霊界。何があってもおかしくない場所なのだ。ピアニストの肩や手に降り注ぐようにするのか、それともずっと奥の誰もいない闇を照らしているようにしようか、迷いながら形を探っている。光の柱の間を深くえぐろうとノミを突き当てハンマーで連打していると、大理石板が打楽器のように鳴り響く。塊の石より板の方が数倍大きい音がする。

石から離れて眺めたら、ピアニストの周りだけ静寂があった。それとは対照的に、鹿が辿っていく白い人の谷からは音や声が聞こえる。きっと彼は今そういうものと交信している最中なのだろう。(K)

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評価とは別の場所

絵が上手く描けないという不安にかられて自信のない線を引いたり、手が動かせなかったり、果ては泣き出したりという子供。他人に見られるのが恐ろしくて絵を手で隠したりもする。結局どう自分が評価されるのかが心配なのだ。評価といえば、日本国憲法にも「国際社会のなかで名誉ある地位を占めたい」という一文がある。憲法だよ憲法!要するに人は常に他者との関係に自己の価値を求めるという絶対性からなかなか脱け出せないのだろう。いやそうじゃなくてね他人からどう見えるかではなく自己評価が大事なんだよと言ったとしても結局それは自己の中にいる他者の評価でしかないのだ。
アートってのは全然別の場所に行くことなんだ。(画)
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光の柱

ラッキョウ畑の土をほじったのは、鼻面の大きさからしてどうも鹿のようだ。堆肥置き場にも物色した痕跡が残っている。そこに栗の皮やリンゴや梨の芯を捨てておいたので臭いに惹かれたのであろう。山の動物たちは臭いと音に敏感だ。

雨が続いたので川の音がザーザーと辺りに響いている。何かやっている時は忘れているが、けっこう大きな音なのだ。今日は蛇口をひねったら水が出た。昨日水取り口のパイプを揺さぶって目詰まりを除去しておいたのが持続している。大丈夫だ。

屋外用の櫓にかけたブルーシートに水が溜まっているので、抜き板を差し込んでおいた。スノコみたいにびっしりと並んだ板は近くのお寺からストーブの薪にでもと頂いたものだけど、アトリエ修理や畑の囲いに使っている。

今夜は久しぶりに星が出ている。顔を洗いながら考えた。この水は一体何人の地主さんの土地を横切っているのだろうかと。お寺の山の沢から始まってアトリエの野原に着くまで全部で5人、アトリエの地主さんも入れると6人だ。この状況ごとわたくしの彫刻だ。きっとあともう少しで素晴らしいものが彫れるようになるだろう。(K)

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緑色の品位

緑色を絵の中で品良く使うのは難しいと聞いたことがある。確かに自然を描いた名画にどんな緑が使われているかと考えてみると、そんなに鮮やかな緑色を思い出せない。例外はアンリルソー。彼の絵の中の緑色は特有の美しさを持っている。子供の使う緑色に似ている。たぶん画家の心が子供のように純粋なのだろう。僕らが下手に真似をすると品がなくなるのは目に見えている。という事で、われわれ不純な心の持ち主は多くの画家同様なんとか緑を避けて自然の緑を描かねばならぬという一見矛盾したルールで争わねばならないという訳だ。
風景画らしい風景画になっている。僕としては珍しい。(画)
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霊界のピアニスト

彼は4本の光の柱に守られて瞑想している。体が発光しているようにも見えるのは、ちょうど月が天頂に昇って来たからなのだけど、彼がそのときどきに与えられた大きな仕事も小さな役目も迷わず引き受けてやり遂げてきたからなんだ。どこにいても月はきっと彼を探し出して照らすだろう。(K)

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活火山の下で

「燃える家」の向こうに山が見えた。火の山のようだった。
マルカム・ラウリーの小説『アンダーザボルケーノ』を思い出した。聞いただけで重々しさと高揚感が同時に感じられるようなタイトルだ。映画になってるのをYouTubeで見たが俳優の個性が気になって小説のイメージとはちょっと違う。特にヒロインが死ぬ場面の宇宙的な静けさが無視されていたのが残念だった。
家を燃す代わりに火山を描こうかと思いながら。(画)
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光はあまねくゆきわたる

クレパスで黄色に塗ってあっただけでずっと触れずにいた月をいよいよ彫り始めた。月の光を最初に受ける男の手がうまく彫れた。薄肉彫りの妙味だ。線の深さと鋭さで奥行きが出る。絵のように彫って行ける面白さがたまらない。ただしぼんやりしているとつい彫り過ぎてしまうので、疲れたらすぐ休むようにして今日は石に向かっていた。

これまでは月に向かって彫っていたのだけれど、今夜やっと月に届いたので、これからは月から照らし出されるものを彫っていく。「光はあまねくゆきわたる」ガハクの書いた詩の中の言葉を思い出した。(K)

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燃える家

人はなぜ家を持つことにしたのだろう。
人が家族という集団で住むようになったのは外圧に耐える為だろうか。過酷な自然の中で少しでも生き延びる為のスキルとして集団化を選ぶようになり、その中の最小単位として家族が生まれたのだろうか。
フォークナーは『野生の棕櫚』の中で主人公シャーロットに、家庭というのが彼女にとってどんなに過酷な場所かを言わせている。
僕は自分がまさか家を持つ身分になるとは思ってもみなかった。今の家を買った当初は嬉しかったのだが、間もなくそれが取り返しのつかない間違いに思えてきた。そしてさらに他のどの家を見ても人生の大きな悲しみの象徴に思え辛いのだ。
家は燃える。(画)
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月の川

月の光が森の梢に降り注ぐ。『白い人』の谷を登っていく2頭の鹿。

家のすぐ前の林道をずんずん登って行くと道はすぐに左と右に分かれる。右を行くと途中に滝があって、その先に採掘山がある。岩山に降った雨水が集まる人工池は、真冬に凍って小さなスケートリンクになる。そこに雪が積もるとファンタジーなイメージをかき立てる。(ガハクが絵に描いている。→『山上湖』

左の道はきこりの道で鬱蒼とした杉林の中を登っていくことになる。道はどんどん急になるが突然パッと開けて明るくなって小さな扇状地に着く。小砂利の中から滲み出している水は透明できれいだ。トワンの足を洗う浅瀬が白い人の谷の源流で、月の川のイメージになった。(K)

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変な形

この人物、バランスも輪郭も変だし形が整っていないのは明らかなのだが、それを簡単に修正するのが躊躇される。そういう明らかに変な形を変でない形に修正することはそんなに難しくはない。しかし今はやりたくない。むしろこのままがいい。ここには「何か」がある。それに気づくべきだ。予定調和の愚鈍な表面ではなく、真っ直ぐ中心に切り込む道が見えてきそうな。(画)
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火を運ぶ

今日はデナリに作品の入れ替えに出かけた。実に9ヶ月半ぶりである。こんなに長いことデナリに行かなかったのには訳がある。これまでは岡山で展覧会をした時の彫刻を少しづつ入れ替えて展示してもらっていたのだけれど、今回からいよいよ未発表の大理石の像を出すことにしたから仕上げに時間がかかったのだ。

『花になったふたり』と『プロメテウス』を新たに展示した。
プロメテウスがかざしている松明を指差してマスター「これは花ですか?」と聞かれる。花を運ぶのも炎を運ぶのも同じこと。人がいまだ知らないものを盗み出して天空を駆け下る心優しく勇敢で孤独な神プロメテウスを子供のように彫ったのはよかった。

プロメテウスの後ろに楽譜帳が立てかけられている。デナリを知るキッカケを作っていただいた音楽家の佐脇さんの作品だ。今日は手にとってじっくり見つめた。ピアノ曲。いつもどこかに飾ってある。(K)

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リンゴの木

創世記のエバが食べた神から禁じられた木の実がリンゴだったというのは後世の発明で、聖書には木の特定はされていないという話は以前書いた。そう思って初期の美しい絵画の中にいるエバを見ると、その手にあるリンゴが情景としてどこかふさわしくないようにも思えてくるから不思議なものだ。
今年は死にそうだった庭のリンゴの木が妻の不断の介護によって再生し今まで見たことのない立派な実をたくさんつけた。まるで奇跡のようだった。奇跡はそれを信じる者に必ず伝播する。これから起こることを楽しみに待っていよう。(画)
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川を彫る

アトリエまではずっと川沿いの道だ。このところ雨ばかりだったから川の流れが激しい。岩を舐めた水が段差から落ちると泡立って白く盛り上がる。その竜の頭のような白い塊から離れると水はまた透明で滑らかで蛇のようにうねりながら下流へと流れ降りていく。その動きを見ていると、目の錯覚ではなく、水は逆に上流に向かって登っていくように見える。白い頭をした龍のようだ。

アトリエについて今見てきた通りに彫ってみると、それはやっぱり川には見えなかった。もう一度イメージを構築しなおさねばならない。自然に学べというけれど、ブレイクはその反対のことを言っている。作るということは、知ることの先まで行く覚悟のことだ。印を彫っただけじゃどうしようもない。形自体が語るようになるまで彫る。(K)

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続・夜明け前の花(の続き)

何かを描こうとしてすんなりとそれが描けた試しがない。描ける時は意識の中心におこうとしているものより、いつも傍の方から急に現れたものにいいものがあって、それを追いかけるようにして絵ができていくのを感じる。だからこの方向ではどうにもなりそうもないなと思いながらも描き続けなければいけない。
この絵、写真にしてみるとかっこいい。(画)
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足を洗う

自分の足を丁寧に洗った。足の裏、指の間、爪の生え際もよく見ながら洗っていたら思い出した。ガハクのお母さんの足を蒸しタオルで何度も拭いた時のことを。気持ちがいいと言っていた。自分では届かない足の裏からボロボロ垢が出た。綺麗な人だったのに病気になって身支度を整えられないのが寂しく辛いことのようだった。何に絶望するかは人によって違うみたいだ。言葉にならない悲嘆。

月の人の足の裏はきれいだ。(K)

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「川へ下る道」

主題が何かということは絵にとってはそれほど重要ではない。意識されたものであれ、無意識的なものであれ主題が言葉で完全に捉えらえるものなら言葉を推敲するだけのことで絵にする必要を感じないだろうから。ただ画家は表面に現れた色と線のあれこれを取捨選択する作業の中で主題と呼ばれる「何か」を捕まえようとしているに過ぎない。(画)
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なんでもない顔

この顔は気に入った。目がいい。強かったアイシャドウを抑えたから自然になった。なかなか彫れないのだ、なんでもない顔というのは。「鳩のように素直に蛇のように狡猾に」って書いてあったなあ。美を探索するときは果敢に攻めることもあるけれど、やっぱりチラと見えた瞬間のイメージを見逃さないことだ。朝から夜までずーっと追い続けた今日の成果だ。(K)

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望ましい自己

こんな絵を描きたいと思っているうちは何かが壁のように立ちふさがっていて、むしろ自分が望んでいる絵に近づけないみたいだ。
どんなものが目の前に展開するか、そこに現れるものがどんなものであれそれが自分なのだから、全てを受け容れてやろうとでもいう態度でいたらいい。
全てを許してやろうとすれば素直な自分が出て、まるで思いがけずずっと望んでいながら今まで見ることのできなかったものがそこに出現した。
みたいな体験だった。色の問題が解決しそうに思えた。(画)
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地中からの通信

ステップを踏むと地中からの通信としての抵抗が起こる。強く踏みつけると反発も大きい。生きているというのはそういうことだ。彫れるかな?地中の足音を。

トワン今日はガハクといっしょに裏山と大高山の両方とも登ったそうだ。つま先を伸ばしてバネを効かせてスイスイと。涼しくなったせいだ。愉快らしい。秋から冬にかけて良い仕事ができる季節なのだ。(K)

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わたしの風景画

むか〜し、若かった妻が絵を描きたいというので油絵の道具を渡した。
彼女はそれを持って近くの川に出かけて行き一枚の風景画を描いてきたのだった。彫刻を始める前は油絵を描いていた人だから使い方は手馴れたものだ。
先日新しい画布を探していてその絵を見つけた。パネルに荒い麻布を貼り付けた上に描かれている。悪い絵ではないが思い出に保存しておく程でもないと思い、新しい布に張り替えようとも思ったのだが、一計を案じて描きなおす事にした。きっと面白い絵になると思うから妻よ許せ。(画)
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奔流と浅瀬

うねりながら流れる川を彫り始めたが、水しぶきが合流する辺りで手こずっている。途中でブツッと終わってもいいのだけれど、どうしよう。男の後ろを斜めに横切るか、それともそのまま下へ落ちて男の足元さえも濡らさずに並行して流れ落ちる方が面白そうだ。

鹿が浅瀬を渡って行く。透き通った水がその足に触れている。そこだけはそっと彫っている。(K)

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版画を額装した

色数を増やせば絵の色が豊かになるわけではない、と絵を描いた人なら誰でもすぐに分かる。むしろ多過ぎる色味を統御できなくて苦しむものだ。
だからと言って数色に限定したパレットで色味の物足りなさを感じさせない絵を描くには、それなりの天才的な感性が要求される。
そういう色の葛藤を免れながら絵を描いて遊べるのは単色のデッサンとモノトーンの版画だけだろう。
デナリに展示する為に版画を額装した。旧作、改作ばかりで新作がないのはちょっとサボっていていけない。(画)
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子供の油絵

「画材屋さんでサービスにもらったんですけど子供達と使えるでしょうか」と生徒さんの親御さんに渡された小さなキャンバス。数ヶ月特に思い当たらずずっと置いてあったのだが、今日思い切って使ってみることにした。

アクリル絵具を久しぶりに箱から出したら、チューブの中でコチコチに固まっているものばかり。やっと6色何とか使えそうだ。水で溶かすにも指でほぐしてやらないとダメなくらい古い。緑色の一色だけは柔らかく描きやすかった。

それでも子供は面白がって塗ってくれる。ある色だけで描いた絵だけど、楽しいじゃないか♪あるものだけで充分楽しんだ。額もあり合わせの木切れを鋸とボンドで作った。中の枠は割り箸を使ってある。小さな木ネジとタコ糸で吊り紐もできた。今度ペンキで額も塗ろうね。(K)

追記:夜になって、ガハクがアクリル絵具をネット注文してくれた。青、赤、オレンジ、緑、黄色、白、黒の7本。これだけあれば何でも描ける。

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アトリエの広さ

どんなアトリエがいいかとは若い頃からよく仲間内で話題だった。
大作を志向していた頃は大きな画面を横にずらっと並べて同時に描いていけるような広さが欲しい。
当然天井が高くなければ大きな絵は立てられない。そして高い所からの光が画面が照からず描き易い。天窓があれば最高。等々。
確かに多くの画家が写真で見る限りお城のようなアトリエを持っている。可能ならいつか自分もあんなアトリエが欲しいものだと思っていた。
その中でジャコメッティという人のアトリエの狭さと質素さを知った。椅子が一脚イーゼルが一台部屋の隅のベッドにはデッサン類が山積み光は裸電球が一つ。衝撃的な程の質素さ。
その中で死ぬまであの作品群を作り続けたのだ。
僕のアトリエは彼に比べれば既にブルジョア空間だ。(画)
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暗い川

凸面にするか凹面にするか迷いながら水しぶきを彫り始めた。まず彫り出してみないことにはどうにもならない。

川の中に暗い流れを見つけた。白く輝く水しぶきはそのすぐ横にある暗く深い水の色で際立っていたのだった。今夜はその影の美しさに彫りながら見惚れていた。

月を見上げる男の腕の影も彫ってみた。凹面の面白さを発見して喜んでいる。(K)

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やれない理由

ジョットの絵が素晴らしいという会話をした。
非常に独創的に見えるのに奇を衒う事などなく「フツー」に描いている。見えたままとは言わないが現代的に言えば個性的な表現であるにも関わらず非常に自然だ。何か理念的方法論を持っていたに違いない。
バッハもそんな感じで曲を作っているみたいだという話もした。
「フツー」に描くというのは難しい。例えば青い空を青く描くというのが僕にはできない。なぜできないのだろう?何かに負けているような気がしてしまう。何に?(画)
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ハートの谷

道は川になる。川は道でもある。峠にV字の渓谷を彫った。雨が白く輝きながら滑って集まって流れていく。鹿の足元を濡らしていく水はキラキラ光りながら過ぎていく。水しぶきを明日は彫ろう。瀬音が響くように。

表象としての言葉に奮いたちながら彫っている。淫靡になりそうな形には細心の注意を払う。清冽さの方へ向かって明るさと暗さをくっきり使い分けるようにして、清らかな面を鋭い線で守るのだ。

夏が過ぎてやっと涼しくなったので、今日は朝と夜の2回アトリエに出かけた。朝は自転車で、夜はクルマにした。決して無理はしない。ちょっと石彫る手を止めるとザーザーと雨が降り出したかと思うほど大きな音が谷に反響している。川の音だ。水はもう澄み切っているラムネの瓶の色に。(K)

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