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2016年8月

事の初めから

「写真みたいに上手な絵」という評価の矛盾を今更指摘する気力はないが、画家が写真を意識し始めたのはいつ頃からだろう?
写真が現在のように鮮明ではなかった頃、一部の画家は写真を利用して絵を描くという行為にある種の後ろめたさを感じていたに違いない。自身の怠慢さや記憶力、素描力の無さを隠している。
それでも現在からすれば幾分おっとりした初期の写真ならば、画家はずっと細部描写と奥行きのある色も鮮かで優雅な趣味の絵を描いて人々に示すことができた。
写真がその全ての分野で絵画を凌駕しようとしていると見える現在、画家は写真に対抗しうるだろうか?
「写真みたい」はともかく「写真以上」はもう怪しい。「写真では出せない」これしかないんだが、待てよそれは事の初めからそうじゃなかったっけ?(画)
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光さす森

森の隙間から差し込む月が二頭を照らす。鳥の眼差しがふたりに注ぐ。優しい気体が充満している。

大きな鳥に見えたあの日の白い雲の形を思い出しながら彫っている。鳥に変換するのではなく真っ白の山の連なりそのままに。そうでないと霊感が消えてしまうのだ。新しい鳥が見つかりますように。(K)

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才能の話?

「友達の君から言ってやりなさい、彼には才能がないから画家はやめておいた方がいいと」
話者はマネ、「君」はモネ「彼」はルノアール。後にそのルノアールに画商がピカソの絵を見せて酷評され「あなたは自分に言われたと同様な事を他人に言うんですか?」とこれは有名な話になっている。
同じような事を芥川龍之介も中野重治に言ったそうな。この時中野は芥川が「あゝこの人は落ちてしまった」と嘆いている。
才能に関しての話題は多いが全て楽屋落ちなので本当はどうでもいい。人は才能で絵を描くのではなく必要で描くのだし結果は原因を必ずしも反映しないのも事実。批評は個々の作品を吟味するしか方法がない。
昨日地面を赤く塗ったら絵が重く暗くなり過ぎたと思い、それを妻に話したら
「今の感覚では捉えきれない発見があるかもしれないから暫く眺めておいた方がいい」と妙に冷静な事を言われた。(画)
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火を盗む

『火を盗むプロメテウス』10年ほど前に彫ったものだ。炎を見つめている目に反射する大理石の光を眺めていると、顔と炎の間の狭い空間を彫るのに苦労したのを思い出す。顔には斜めからそっと極細のノミを当て、炎の仕上げはほとんどヤスリで削り出したっけ。今ならもっと腕が上がっているから、切れ味の良い鋭いノミを使って相当細かいことまでやれる自信はあるのだけれど、この時にしか出せないものがこの顔や姿にはある。夢中で彫った熱いものが残っている。ついこの前まで気に入らなかった顔も良いと思えるようになった。何か私の中で変わったものがあるようだ。

火を神のもとから盗み出して人間界に運んで来たプロメテウス。『火』が表象するものは善、太陽、愛のことだろう。いまだ人間は『火』を持て余す、というより使いこなせていない。手に入れていない。(K)

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考え続けたらいいのか

コペルニクスが知人にどうやってそんな大発見をしたのかと問われて「いつもその事について考えていたから」と答えたとか。事実かどうかは知らないが。
霊感がないと形も色も全然ダメだ。
霊感は持続した思考の器にある瞬間突然入ってくるのか?それとも気になる事は常に頭からとれないのが人間故に、一旦はそこから全く別の場所に行ったとき謂わば物事の見え方の角度を変えた時、閃きのように降りてくるのか?
画家たるもの肝に銘じておくべきは、一人として同じ人間はいないのだから望もうと望むまいと誰もがオリジナルな人生を生きるしかない、現在の画壇の潮流などは勿論、例え尊敬する師であろうと鏡のように見てはならない、頼りにすべきは自己の直観だけだ。ってね。(画)
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山を覆う翼

黙示録に書かれてある荒野に逃れた女に与えられた翼、その表象するものは深慮だそうだ。自由だとばかり思っていたので意外だった。翼に包まれて守られるというのは慎重な行動と洞察のこと。

新しいものを生み出し作り出すことは容易なことじゃない。華やかなことでもない。孤独で地道で根気の要る作業の連続なのだ。それを支える熱意でさえ自分のものじゃなくて天から降りてくるものなんだ。受け取る覚悟があればだけど。自分で用意できるものは意志だけだろう。技術だけではこの峠は越えられない。

山を覆うくらい大きな翼を持つ鳥を彫り始めるには少し時間がかかった。草刈りや畑仕事をして汗びっしょりになって、横目で鳥をチラと見ながらトワンの脚などをしばらく彫って、疲れて眠くなってソファで仮眠。突然ガバと起き出して鳥の頭から彫った。遅い時間だったけれどガンガン彫った。昨夜のことだ。

今夜はよく切れるノミが欲しくなって、フイゴで火を起こして加冶屋仕事をやった。ハンマーの柄が折れたので枝をナタで削ってすげ替えた。要領が良くなっていて一発でいい柄が入った。(K)

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輪郭線

同じ場所を何度も描き直していると、ありきたりのイメージばかりを描いては消し消しては又描くという繰り返しに堕してしまう事が多い。
見えているものへと進む過程が信じられていれば、例え今見えなくても見える瞬間を捉える事も可能だろうが、往々にして描く為に消すのではなくて消す為に描くという行為の連続。
結局「霊感」が降りてこなければダメなのだ。そしてこれさえあれば何も恐れるずに済むはずだ。
その為に輪郭線を引くといいんだと今日思いついた。形の輪郭はボケていようが色の曖昧な境界だろうがどうしたって自然に出て来てしまうのだが、「輪郭線」はブレイクの言う通り画家の認識の意志そのものだ。引かなければ存在できない。
「輪郭線」を引くと何かがすっと解決するのを感じた。また前に進む事ができる。(画)
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山のように大きな鳥

アトリエが近くなるに従って谷が深くなり空も細長くなる。遠くまで続く空を見上げながらペダルを踏むのが大好きだ。車はたまにしか通らないからのんびり走ればいいのだが、いつも国道から外れて田舎道に入った途端スピードを上げる。レースみたいにぐんぐん漕ぐ。息がきれるくらいに。

カーブを曲がって尾根の向こうに出たら、目の前に白く大きく横に膨らんだ雲が現れた。それはちょうど翼を広げた鳥のようだった。山のような大きな鳥だ。頭の形もはっきりしている。

「あれは天使だ」と呟いた。ちょうどあの下が私の仕事場だと思うと心弾んだ。(K)

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絵の中の空

雲を描くのがニガテだと以前描いた。
どう描いても必要以上に意味が出すぎるように思えて抑制が効かない感じがする。
自然的で表現的で装飾的で象徴的で…とどうにでもなるイメージと対決するのがしんどい気もするからだ。
要するにテレがあるんだろう。歳をとってそういう自虐にも距離をとれるようになったのか、雲を含めて空を描く練習をしてみようという気になってきた。
名だたる画家の描く空はどれも素晴らしい。彼らの描く細部全てにおいてそうに違いないが特に空を美しく描ける画家の心の状態を想像するととても羨ましい気がしてくるのだ。
描き始めてみると空も雲もどう描いてもいいはずだし、どんな色を置いても構いはしないという自由度は最高だと分かる。しかしそれだけに画家の持ち味が試されるのは間違いない。(画)
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後ろ姿

難しいと思うこと一番先にやってみる。それが出来たときはほんとうに楽しく面白い。後ろ姿の美しさは格別だ。今夜は2頭の鹿が横に並んで歩いている様に見えるところまでは彫れた。ふたりが歩く森の小道には梢の隙間からすーっと月の光が差し込んでいるはずだ。鹿のまわりの森を早く彫りたい。(K)

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額縁なき絵

むかし絵を額縁に入れようとしたらある画友に「額縁絵画 」は卒業すべきだと言われた。
当時描いた絵を額に入れないでそのまま展示するというのが流行り始めた頃で、絵を装飾から物質に置き換えるとか何とか…そんなまあ理屈だった。
理屈は何となく解らなくもなかったが美術館の壁に掛けるとどうしても見栄えがしないという結果、画布の側面が絵具で汚れているのを覆い隠す為に白テープを貼ったり、予め汚れない様にマスキングして制作したりする。結局装飾を気にしてる。額縁に金をかけたくないという貧乏人根性に嬉しい理論ではあったね。
僕は自分の絵を額に入れるのは面倒臭いけど好きだ。額装されようとされまいと絵自体の質がそんなに変わりはしないが額で絵の演出をしたくもなる。
さて今回は小さいのを4つ作った。角材の端を45度の角度に切ってピタリと合わせる。この技はなかなか難しいがうちの奥さんはこれが非常に上手なのだ。これからヤスリなどで形を整えるのは僕の仕事。(画)
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旅は道連れ

鹿は2頭にした。彫りながら考えていた。古代チベットの神は一人が二人であるような姿で現れるそうだ。善と真理が抱き合っている形だ。一人の中にも両方がないと泉は枯れてやがて死滅してしまうのだそうな。

今まで飼って来た犬も猫も月を眺めるということはしなかったから、鹿もきっと月を見つめたりはしないだろう。夜の闇に向かってじっと佇んでいることはある。辺りの気配や匂いに耳をそば立て見つめている。何を見ているのか?

森を行くふたりを照らす月がある。(K)

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画家になる人

同じ美学生同士お互いを見ていると画家になれそうな人間というのは分かるものだ。
能力や適性の有無よりも画家になる天分のようなものが備わっているかどうか、それが決定的な基準になる。その事を皆で話し合った訳ではないがたぶん誰もが分かっていた。
とは言えあれから40年、我が現在を考えれば未だに絵を描いているのは自分に天分が備わっているからではなく、そういう結果になっているとしか言いようがない。
「筆を折る」そんな決定的な判断をするべき状況にあった経験はないし「描き続ける義務がある」と思った事もなければ「我が道を行く」と独断した瞬間もない。只々成り行きである。
今日は夏が始まって以来ほとんどなかった腹痛がぶり返して体調不良。絵を描く気力も減退。
でもここだけ描ければいい、と思った絵の一隅も思い届かず。(画)
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山に向かう鹿

おとぎチックなものは全部削り落として、鹿一頭だけにした。暗い森の中でも群を見失わないように大人の鹿の後ろ姿は白く輝いている。先頭を行く鹿のように彫らなきゃならない。(K)

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台風接近中

今日は朝からやる気が出なくてだらけていた。台風接近で気圧が下がっていたせいだろうか?
学生の頃ほとんど来ない同室の学友がある風雨激しい日に限って突然やって来て皆を呆れさせた。その日は台風が接近していたのだった。
彼は非常に絵が上手く、短時間で洒落た絵を描いた。時間をかけゴシゴシガシガシやっている僕なんかを尻目に器用なものだった。それが彼のペースだったとも言える。
一点に集中すれば行き詰まりが早く来る。それは絵の完成という目的上では必然で必要な事なのかもしれないが、制作する身は一挙に先が閉ざされ絶望的な気分になりやすい。
今日はやる気のないまま何枚かの絵をあれこれ眺めあれこれに手を入れた。
集中力はないが気楽だ。いつも一つをやっていればあっちのが気になるし、それをやり出せば別のもやりたくなる。
どの絵にも長く関わっていたいからこういうやり方もいい。(画)
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薄明の野

夜明け前の薄明りの野原で遊んでいた動物達を石の上に描いた。遭遇したガハクによれば、鹿が2頭、ハクビシン(もしかしたらアナグマだったかもしれない)が3匹いたそうだ。

鹿の後ろ姿は白い。白い尾と白いお尻が遠くからでも目立つのは、群れで移動する時に後続の子鹿や雌鹿に先頭を行くリーダーがよく見えるようにだろう。ぴょんぴょん跳ね飛ぶ鹿は、早朝の阿蘇の高原に放たれていた馬のイメージ。朝霧に濡れた黒いビロードのような体がつやつやと光っていてほんとうに美しかった。

ハクビシンは夢の中にいる。いつまでもゴロゴロと野原の斜面を転がっていて人間が近づいても逃げようとはしなかった。ぽっかりそこだけピンクのスフィアに包まれ守られていたからだ。(K)

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色彩論

以前ほど絵の色で苦労することはなくなったとは言えても、それなら明確な方法を何か一つでも掴んだかと考えるとそれも不確かだ。
頼りになりそうな方法はいくつか思いつくようになったが、それが決定的な役割を演じてくれるとは限らない。いや大抵ダメだ。ダメだけど前に進む縁にはなる。引き出しの中にある方法論の数だけ前に進む機縁を持てるということでしかない。で、結局いつも手探りだ。いや手探りでやるのが正攻法だと…要するに度胸がついたということか。
きっと、これさえあれば大丈夫、みたいな安心を持ったらそこでおしまいなんだよ。(画)
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夜道に月

月明かりに照らし出されたものだけを彫ればいいのだという気楽さがある。奥行きは無視して構わないのだ。見えるもの見たいものだけが月光に浮かび上がる。鹿を美しいシルエットで彫ることができたのは、美しいバイオリンの音を聴いたからだ。何が何のためにあるのか、人間には理解し難い。後になってやっと、「あゝ、あれはこの為にあったのか」と思うことしばしば。

月の光の隔壁を通り抜ける鹿。彼の脚は細くしなやかで頑健だ。そういう脚を持ちたい。脚は第二の心臓と言われている。自転車に乗った日は血圧も落ち着いた良い数値を出す。

今日は涼しかったから1週間ぶりに自転車で出かけたら、膝にいつものパワーがない。筋肉が落ちているのが分かった。厳しいのは夏の暑さと冬の寒さだけ、あとは楽チンである。もうすぐ秋だ。コオロギが鳴いている。(K)

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見て描く 見ないで描く

最近花や木を主題にして描く事が増えたがそんな絵にはほとんど意味らしきものがない。
自然のリアリティを出したいと思ったり、現実のそのものとは何の関係もない所で勝手に描きたいという思いの間で描きながら心が揺れ動く。結構苦しい時もあるが、それが面白い?
今まで「自然は私の想像力を減退させる」ウィリアムブレイクの啓示に従って、写生を元に絵に仕上げるという方法を完全に拒否して描いて来た。さらに描く為に見るという事はできるだけしないようにさえしてきた。
それが最近心情に変化が生じたのか見たものを素直にデッサンできるようになったのだ。
「見ないで描けなければ見て描けるはずがない」というジャコメッティの反語のような穿った言葉からすれば僕もようやく「見ても」描けるようになったという事だろうか。(画)
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横超

あの晩の鹿はこんなに悠然とは歩いていなかったけれど。ぴょ〜んと2回跳躍しただけで道を横切って森に消えた。

月夜の川で水を飲み、畑でトマトをかじり、夏草を踏みながらまた森に帰って行く。

『横超』という言葉があったのを思い出した。この道からあの道に移るのじゃなく、横にひとっ飛びで乗り越える、道を必要としない鹿の自在さに憧れる。(K)

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茜雲

アンリルソーの描く空はどの絵を見ても素晴らしい。
いつか見た事のあるような雲が描かれていて日の光に照らされ美しく輝いていたりする。空の色の微妙な美しさ。彼の心の純粋さが生み出している空なのだ。たぶん誰もが描ける空ではない。
そんな事をいつも思いながら小さな絵の空を描き変えた。先日見た空を参考にした。
今までそういう描き方を意識してわざとやらない様にして来たのだが、心境の変化が起きたらしい。(画)
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人の肌

800番の砥石をかけている。最終段階の磨きに入って、滑らかで透明感が出て来た。石が透き通ってくると、稜線がぼんやりして形が分かり難くなるのだけれど、人の肌の柔らかさと色味を感じさせてくれる。髪のところだけは200番の粗いままにおいてある。後で違いを出しながら試してみたい事があるのだ。いろいろやってみよう。

遠い昔、人を彫るのが彫刻だった。今まで彫って来た抽象的な形の経験がこのふたりの像に使われている。形の抽象化は意識の実現化には必要なんだ。(K)

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描く意味

この絵はいつもと少し描き方が変わっている。といっても自分にとって新しい描き方というのではない。
最近よくある事だが、うんと若い頃特に絵を始めた頃に持っていた自分の絵へのイメージが心象のように浮かび上がる。そういえば昔描こうとしていたのはこんな感じの絵だったのかな…。
そうすると一気に時間が縮まり、今そこに若い自分がもう一人いて絵を描く今の僕を見ているような、そんな気持ちになる。
過去においてきた何か大事なものに気づきそれを取り戻しに行っているのか。(画)
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月の奏者

日曜日の夜のアトリエ。まず猿よけネットの中に入って、キャベツとブロッコリーの苗に水をやった。人参の種を蒔いたところには枯れ草を被せてある。芽が出るまでの日除けだ。上からジョウロでたっぷりかけた。

石の前に座ったのが八時ちょうど。扇風機を顔と手元に当てる。石の粉を吸い込まない為に。九時近くなったので石を彫る音がまわりに響かないように窓と戸を閉める。締め切った部屋の中に細かい粉が舞って、ちょっと喉がいがらっぽくなった。十時ちょうどにノミとハンマーを置いて、いつもの筋トレ。最近は腕立てよりスクワットの方がきつい。

森の中でピアノを弾いている人を夢に見た。月に照らされた輪郭だけで、それが誰とはっきり見えなかったけれど、きっとあの人だ。亡くなってからもうすぐ一年だ。(K)

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暑いです

苦戦している。
とにかく不満なので、いつまでもいじくりまわしているが望みのものは出てこない。
こういう時の対処法。積み重ねではなく最初の衝動に戻すような気持ちで細部を描き込む。
枝を描き実をつけ葉を描く。
木をそこに置かれているように描きたいという思いと、象徴的抽象的な形を見つけたいという目論見が出口を求めて引っ張り合いをしている。(画)
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三つのステップ

リズムが分かるまで随分時間がかかった。テンポだってやっと最近になって合うようになったんだもの。いくら耳を澄ましても聞こえなかった音が現れ出て来た。これは私たちにとっては新しい音だ。今生まれたばかりの音の重なりだ。ステップを踏む音さえ音楽に聴こえる。真善美は一致するんだなあと身を以て知る。彫刻が良くなってきたから確信を持った。目と手と頭が一致すると心が自由に活動し始める。最内部に隠されていた無垢なる情愛。

「kちゃんあなたの思うように生きなさい」という声が聞こえる。母の遺言♪(K)

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色の豊富さ

パレットに置く絵具の色数が多ければ色彩豊かな絵が描けるわけではない、むしろ下品な色のどんちゃん騒ぎに終始してしまうのがオチだろう。こういう絵が巷にはけっこう多い。
だからと言って不調和を嫌い始めから数色の絵具しか使わずに描いた絵の多くが決定的な色の単調さに陥って結果的に鈍い絵になってしまう。活力のない無趣味な絵画。こういう絵も多い。
どちらの方法にしても常人には理解できない画家としての技巧の確かさ色彩感覚の鋭さが必要なのだろう。凡人は適当な色数で描く方が無難だ。その方法で傑作を作り出した多くの昔日の巨匠たちを見習おう。
色数豊富な絵を描きたいと常から思っていてもリアリティのない色はやはり画面上に置いたままにはしておけない。色数が減っていくとしても自分の色彩感覚を信じるしかない。(画)
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跳躍歩行

ピンと張った糸のような斜面を跳躍しながら進む犬。クレパスと色鉛筆の下描きがだんだん消えて、形に取って代わって来た途端出てくる重さ。これをなんとかしなくちゃならない。もっと軽やかにしたい。やわらかな形には強い線が必要だ。見えているものだけを彫ること。(K)

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エバとリンゴの木

成長の悪い庭のリンゴの木の世話に一生懸命な妻を主題に描いていたつもりだったが、描いているうちに「この絵はエバだな」と閃いた。
知識の木に実った果実をアダムと二人して食べたエバは神の戒めを犯した罪で楽園を追放される。その実がリンゴだとはどこにも書いてないのにいつの頃からかリンゴが禁断の果実として絵に描かれるようになったのだそうだ。
リンゴの枝や葉の描き方が難しい。鳥や蝶も描きたい。どこかにヘビを描く事になるのかなあ?
妻の最新作のレリーフに刺激されて描いたので、トワンの姿は今までの中でも一番実感がある。(画)
Dscf4863

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雲の羽

愛しいトワンのことならよく知っている。彫っていても楽しい。頬から耳にかけての毛並み、顎の下の毛の房がよくできた。背中から空に向かって羽のように広がる雲は彼のスフィアだ。夕焼け雲が金色に輝いて、やがてピンク色に変わるように、やわらかくてふんわりとした形にしよう。(K)

Dscf4850

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抽象画家の告白

むか〜し読んだ本に「抽象画家がわが子の写真を後生大事に持ち日々眺めていたらおかしくないか?」というような事が書いてあった。
工学系の機械が機械的に作り出したものの方が現実味を持っているという事を図らずも画家自ら告白しているというわけだ。つまり彼の描く抽象画は現実感を持たない芸術の模造だと。
妙にこの言説が記憶に残っているが変な話だ。本当は現実と絵画が常に接点を持つ必要はないのだから例え一部の抽象画が自然の写実的な描写を捨てたからといってその抽象画家がわが子の写真に見入っていても一向に構わんでしょう。
という一般論はさておき。今日の午後遅く降りだした突然の雨がほどなく止んだ後の空に太陽と雲が美しい光のファンタジーを作り出した。
「お父さん、あの雲描いて」という小さな子供の声が聞こえて来た。
もとより子供はいないので想像の中の声でしかないが、同時に言い訳してる自分がいる。
ーーあゝいうのは絵にするのが難しいんだよ、お父さんあんまり上手じゃないしさ、他にも理由があって…君は小さいから未だ分からないだろうけどーー(画)
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