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2016年7月

踊る脚

彫りながら鹿の脚を思い出した。トワンの爪を切ってやる時に眺めた彼の指先が浮かんで来た。今までに見たもの、触れたものの記憶が使われる。やましい下心さえ無ければ必要なものはパッと現れ生かされる。そういう体験を毎晩している。でも今夜は暑かったからか、目を閉じたらアトリエのソファで寝てしまった。だからトワンの脚までは彫れなかった。明日だ。(K)

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スキルアップ

ここ数日この顔ばかり描いている。
思うように仕事が進まずどうも壁にぶつかったようだなと感じた時の対処法。
昔はともかく今は絶対諦めないで描き続ける、いや正確にはほとんど諦めてはいる。だから多分完成には至らないだろうが少なくとも描き続けていれば何らかの姿が現れては来るだろう、それだけでも意味はあると思って描き続ける。
個々の表現力のアップ、もっと根本的には難局を打開する方法の多様さが技術力だと思っていたが、諦めながらやり続けられる究極のサバイバル技術こそ最高のスキルなのさ。(画)
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よい形

正しくても楽しくなくちゃ良い形とは言えない。肩を何度も彫り直した。胸はふくよかになってきた。この人はやはり女のようだ。やさしい形をしている。足先がツララのようにスッと丸みを保ちながら尖っているところが気に入った。彫っているのは私ではあるけれど彫らされているような気持ちだ。思いつくまま、思い浮かぶこと、気がつくことを全てやり尽くす覚悟で石に向かっている。新しい形が見えてきたときはほんとうに幸せだ。今夜は月の女の胸と肩と足が見えた。(K)

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ひらめき

うまくいかない時に才能の不足など嘆いても仕方がない。
後戻りも修正もできない人生だから今更どうしようもないし、もし僕に豊かな才能があったらその圧倒的な重さに押しつぶされていただろう。
さて、うまくいかない時の当面の解決策は主題と描き方を一致させることだ。主題に描き方を、又は描き方に主題をでもどっちでもいい。それにどっちでも同じ事だ。
画面をじっと見つめていないでとにかく描き続けるしかない。簡単で一番難しい。
あゝ閃きさえあれば。(画)
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月のステップ

片足でしかテンポを取れなかったのに、今夜は両足交互に3拍子のリズムを刻みながらバイオリンを弾いていた。自然にそうなったのだが、音の流れも前よりずっと良くなった。

今までやって来たことが一挙に繋がってきた。もう後がないと覚悟を決めたということか。もう退かないと決めたのだっけ?いやもう余計なことは止めようとしてこういう生活している。(K)

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色で描く

「陰影で描けるようになったら次は色で描くように工夫しなさい」と美術学生の頃教師に言われた。
教授されたその意味が今でもよく分からない。たぶん形を空間的に表す方法を陰影ではなく色調で工夫しろという事だろうと思う。でもそうだとしても陰影を色彩が超えられるものなのだろうか?分からない。
だから未だに僕は陰影で形を描き表しているし色を考える時も色の持っている明暗を元に工夫しているに過ぎない。特に灰色の調子の変化と微妙な色調にずっと惹かれたままだ。これではいけないのだろうか?
そうだ、いけないんだよ。だって何故そうしなければいけないかと言えばその方が高度だからさ。君の絵はさっぱり高度になってないよ。
時々自分が最初に絵を始めた若い色味が目の前に現れる事がある。そんな時は胸をつかれるように懐かしく思える。と同時に俺も進歩がないなあと苦笑い。(画)
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子供の視点

イランの子供たちを撮影した映画『ホームワーク』(キアロスタミ監督)がとても良かった。宿題を忘れた子供一人一人にインタビューして行くのだ。子供の語り口、その嘘も含めて、彼らの話す言葉の一つ一つからその生活が見えるようになっている。素晴らしい映画だった。インタビューそのものに怯えてパニックになってしまう子は、親友が横にいてくれるとやっと平静さを取り戻す。1時間17分の短編だけれど、最後まで観て良かった。最後に子供が詩を諳んじる。無垢について考えさせられた。潰されずに彼の一生が続きますようにと願った。

子供たちと今日は宇宙を描いた。9歳の子には土星を、7歳の子には地球を、5歳の子には星々を描いてもらった。土星の輪が歪んでしまったのが本人には残念だったらしい。でもそこがいいんだよ生きている感じがして。そう言ったら顔が笑った。(K)

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まず描いてみる

まだ完成させねばならない絵が他にあるのだが、新しい画面に向かうという事も同時にやらないといけないような気がしてきたのでとりあえず描き始めた。縦40cmくらいの絵だ。
主題は庭のリンゴの木と妻と犬。バージョンの一つ。
発注されたものでもなければ締め切りがあるわけでもないんだからペースも自由、失敗しても誰からも文句はなし、気楽なものだ。
今日見たイランの映画監督の撮った短編がよかったので影響されてもいる。
お客様は神様です(だから目の前の観客などどうでもいい)とはけだし名言なり。(画)
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春の野

やっと今夜、月から降り立った人の左手を彫った。その角度と方位が重要なので、なかなか彫れないでいた。その手の先から広がるスフィアは優しく柔らかい。向こうの方で鹿が跳ねている。山から出てきた狸や穴熊がゴロゴロ転がったりもしている。

まだ完全に夜が明け切っていない早春の山裾の野原に繰り広げられる動物たちの交流と饗宴。その様子をガハクは10年ほど前に目撃している。あまりにも外が騒がしいので2階の窓から眺めたのだそうな。そして外に出て近くまで歩いて行ってみた。夢中で遊んでいる動物たちはすぐに逃げようとはせずに、しばらく遊び続けていたのだそうな。

その話が楽しくて、まるで自分が見たことのようにずっと頭に焼き付いている。夢のような風景を石に彫ってみたい。(K)

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神話素

家の引っ越しの時に前の家の裏に植えていたリンゴの木も移植した。
気候や土地が合わないのか、日陰でダメだったのか、ほとんど世話をしなかったからか、その全てが原因か、ひどくヒョロヒョロとしていた木は、その後の妻の手厚い介護で(それは実に執拗な程の手のかけようで)生き返ったと言っていいだろう。
今は毎日窓から眺め、一枚でも黄色い葉が出れば何か原因があるはずだと仔細に点検する。害虫を発見すれば薬をかけ、幹に割れ目が出ればそこを塞ぎ、ドクターは治療と看護に余念がない。
今にも枯れて倒れそうだった木が、毎年少しずつしっかりしてきて、満身創痍ながら遂に今年は一人前に成人したように根もがっしりして枝に葉もびっしり、そしてたくさんの実をつけた。日々大きく成り続けている。(画)
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限界スピード

スキーを夢中でやっていたのは20〜30までのちょうど10年間。あの身体感覚は今も体に残っている。雪の抵抗とバランス。最初の頃はこわごわ滑っていたけれど、だんだん慣れて来るとスピードを楽しむようになった。ターンはスピードを抑えるためにやることもあるが、技術の高い人はターンする度ににスピードが増す。

リフトが止まって誰もいなくなった無音の夕闇迫るゲレンデで、その日最後の滑りは直滑降。ストックを脇に抱え込みなるべく小さく卵の形になる。雪面に顔を向け目だけ前方を睨みつける。さあ行くぞ!(K)

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自由さの獲得

大きな「すなどる人」の森がだいぶ光ってきた。こうしたかったんだと分かる。こうなると急に絵が完成しそうな気がしてくる。
絵を描くというのは自由さの獲得だといつも思わせられる。どう描いても全て自分の絵だしそれ以下でも以上でもないという事を知る事だ。(画)

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スピード感

スッと地上に舞い降りた瞬間、彼の髪は真っ直ぐ空に向かって鋭く尖っている。顔の側面、こめかみの辺りの清々しさがポイントだ。

この人は阿修羅のようにも見える。誰だか分からないが彫っていくうちにその正体がはっきりして来るだろう。今は月よりの使者のように思っている。彼は自分に課せられた使命を知らない。動かされることに素直に従っているだけの無垢な人の魅力は、その形そのものから溢れる躍動感とスピードにある。(K)

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鍛える

背中の筋肉痛が鬱陶しい。でもいつ痛めるような事をしたか覚えがない。例の高齢者モードだが、どうやら数日前の自転車ライドが原因らしい。
自転車に限らず散歩するにしてもただ動いているようでも何かを見て何かを感じている。それも何度も繰り返しているといつの間にか体のどこかに刻みつけられる「何か」が鈍い頭にも残るらしい。絵を描いているとその「何か」が無意識に表れるのを見る。
年寄りの筋肉痛以上にいつどこで自分の中に入ったのかが分からないイメージ。非常に納得できるものから思わず??となるものまで。
視覚的なものは未だ分かりやすい。目の前に現れたものを選別し改良できる。でも観念的なものになるともはや制御不能。これが自分だと納得するしかない。
だから人間を鍛えるしかない。でもどうやって?そもそも人間って?(画)
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樹木のように

月の光をまっすぐ受け止めようとしているこの人には自意識がない。自意識のないところに猥褻さがないのは、ちょうどトワンが裸なのにちっともいやらしくないのと同じだ。

夕暮れの空を横切って行くアオサギを見た。両脚をきちんと揃えて後ろに伸ばして飛んで行く。アオサギの脚の黒いシルエットとまだ少し明るい空が作り出すシンメトリーな幾何学模様は、どこかに吸い込まれるような清冽な空間美があった。

今夜は思い切って胸から腰まで彫ろうと、まずフイゴに火を起こしてよく切れるノミも作った。焼き入れはキンキンに硬く入れた。夜もだいぶ遅くなったけれど、見えて来たイメージを急いで刻んだ。終わったのは10時半だった。(K)

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信と真

作業中に小さな打撲をしてしまった。直ぐに指で強く圧迫する。始めは打った時よりむしろ痛い位だが我慢して指圧していると徐々に痛みが引いていく。こうすれば腫れないし痛みも尾を引かない。
この事でいつも思い出す。教室で子供達が同じような痛い目に遭った時こうすれば痛くなくなるからねと言いながら指で押す。まだ数年しか活動経験のない小さな神経からすれば相当の恐怖があるだろうに例外なくどの子もみんな我慢してその初期の痛みに耐えて身を任す。健気にも先生を信頼しているのだ。そこに彼らの「信」がある。
絵を描くというのもこれと同様ではないか?
描くという行為自体に価値があるというのは既に身をもって分かっている。だから描くのだが、もしこの行為の先に絵が完成しなければこの行為の意味は小さい。
いや必ず完成すると画家は信じている。何ものかに「信」を置いているからだ。(画)
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雌鹿で子鹿

蛍を眺めながら自転車で走っていると、突然川べりの草原から飛び出した鹿が数メートル前方を横切った。たぶん子鹿でメスだろう。優しいシルエットだった。鹿を見るとついトワンと重ねてしまう。大きくて愛くるしい目がよく似ている。

大理石の上に描いてみた。月夜の森に向かって川を横切っているところ。月の人の後方に刻む。その向こうに小さな滝が流れ落ちている。月の光の滝だ。(K)

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従うべきは細部なのか

絵全体に不満があっても部分的には相当気に入っている所があったりする。
時には巧くいかないと思える絵の中にそういう部分を発見し、そこを生かす為だけに全体を描き続けるという事をよくするし、そこを描く為に全体を引っ張っていくという描き方になる時もある。
全体を支えているのは細部であり細部の積み重ねが全体を構成するというと理の当然と思えるが、絵というものはそんなに単純ではない。
どこまでが細部でどこからが全体なのか?必ずしも明瞭ではない。
ある画家は細部のどこか一つでも崩れれば全体も崩れる(例:セザンヌ)と言う。これは実質上細部はないと言っているに等しい。
別の人は細部のどこか一つが完成すれば全体もその時完成する(例:ジャコメッティ)と言う。これは細部と全体は同じものだ(全体=細部)これもやはり細部は存在しない。
思うに画家が細部に拘泥していてはいけないと自己を戒めるようになったのは近代においてだ。
僕は細部に従って全体を仕上げるしか方法を知らない。(画)
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仕事仲間

レリーフを彫りながらミケランジェロのことを想っていた。死んだら彼に会えるだろうか?会って話ができるだろうかと。(向こうでは何語でも通じるのだそうだ。私がイタリア語を話すのか向こうが日本語を話すのかどっちだって同じこと。)

「君はどんなものを彫るの?」と聞かれて、これですとサッと2枚の大理石レリーフを取り出して見せよう。(向こうでは重い石でも必要ならばスッと動かせるらしい。道具もサッと出て来るからすぐ仕事に取りかかれる)

ウィリアム・ブレイクのことも考えた。真剣に生きた人たちに会いたいと思う。
「こういう絶望の時代にこそ個々の人の誰と繋がっているかなんだよ」とガハクは言う。(K)

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痛み

一昨日の夜、歯が痛くて眠れないということがあった。
どの歯が痛いというのではなく、左の奥歯上下が全体的に痛い。痛みが広がって顎やこめかみまで痛くなってくる。どこまで痛くなるかと思えて冷や汗が出た。
でも夜が過ぎると昼間には全く痛みがなく忘れるくらい。そして今日の明け方又症状が出たが水を口に含むと不思議な事に消えてしまう。しかし10分くらいすると又じわじわ痛くなってくる、水を飲むの繰り返しで朝まで。そして昼間はほとんど気にならない。
きっと疲れから来る歯の痛みだと思うことにして様子を見ることにした。
妻がずっと若かった頃神経痛で数ヶ月病に臥したことがある。やがて健康を取り戻した彼女の肖像を僕はテンペラと油の混合技法で描いた。
若い画家の野心とは裏腹な技量の拙さと経験不足が拭えないが、同時に当時のリアルな不安と安堵、苦さや青さ、そして対象への愛情が無意識的に表れている。今の僕にはきっと描けないだろう。(画)
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月の人たち

これを見てガハクが「万延元年のフットボールだね」と言う。大江健三郎の小説だ。月を頭の上にかざしてボールのようにいただいているからなのだろうけれど、確かにこの男はあの小説の時代の夢や絶望を内に秘めているような鬱屈した厳しい目をしている。「懐かしい年への手紙」なんてのもあったなあ。今日は朝一に投票所に行った。真面目な市民はもう止そう。お祭女の名残のせいだ。すっかり捨て去ろう。今夜は静かに弾き始めたバイオリンが途中は鋭く突き刺さるように激しくなって最後は美しく弾き終わった。こういう時を迎えるために生きてきたんだなあ。(K)

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情報ブログ風に

銅版画のインクは温めた方が伸びがいいのでウォーマーの上に版を置き乗せたインクごと温める。
版を置く鉄板の下に焼肉用の電熱器を差し込んだ。温度調整ができるし火傷などの危険もない。もっとも触れないほど熱くする必要はない。スイッチを外へ出して(一番手前の下に見える)手袋でも動かしやすいようにクリップを取り付けた。
溝にインクを詰めてそれ以外の部分を拭き取るというのが銅版画の刷りの仕方でインクを詰めるのに僕はローラー(中央)を使い、版面のインクをゴムヘラ(その手前)で大まかにこそぎ取る。
さらに寒冷紗(右下の黒くなった布)で版面を磨くようにインクを拭き取る。
最後に最も白くしたいところを掌や指の腹などでサッと払うように拭き取る。
この掌などで拭き取る作業はやや技術を必要とする。専門家になると相当繊細なニュアンスを刷りに残せるようだ。僕はまだ練習中である。(画)
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やさしい森

オリオンの森は雨のように降り注ぐ。
幹は上に行くにほど太く彫り直した。
やわらかくてやさしい形になった。

石を彫っている間はこの世に属していないのだ。石を彫るのを止めたときは絶望して急に老いるだろう。死んでしまうかもしれない。浦島太郎の気持ちが今は分かる。あれは実話だ。(K)

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7月

また7月だ。
毎年この時期になると思い出すのはSの事だ。もう40年以上も前のできごとで思い出としてもそろそろ風化していいと思うし、去年の秋にはそれまで描く事が出来なかった彼の肖像をこうやって描く事ができた。対象化できたのも自分の気持ちが納まるところに納まったからだという事になるなら、その意味では風化したと言えるかもしれない。
過去の事象はあくまでも記憶として僕という人間の脳内に信号化されているだけであってどこかに存在している訳ではない。僕という存在が消えればそれも同時に消えるのは間違いない。
しかしその時間が絵の中には存在する事がある。
描いてみて分かった、夢に現れた「目の大きな種族」は彼の事でもあったのだ。(画)
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月夜の犬

トワンはほんとにキュートでチャーミングだよなあ。目のまわりが黒いアイラインを引いたみたいになっていて、オスなのにメス犬みたいだ。口が極端に小さい。パンを少しずつ噛んでいるところなんか人間みたいだ。

そんなことを思い出しながら彫っていたら、そこだけリアルになった。(K)

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身体的解釈

カルダーがマルセルデュシャンのアトリエを訪問した時デュシャンは「ガラス絵」を制作していた。
「たくさんの鉛の小さな小片を一枚一枚大きなガラス面に糊付けして行くんだ、それは根気のいる仕事でとても口先だけの似非作家とは思えなかった、彼は間違いなく手で作る芸術家だ」とカルダーは人に話したということだ。
それからモンドリアンの「ブギウギ」を見たカルダー、
「この綺麗な色の矩形がくるくる回ったり揺れたりしていたらもっと面白いだろうに」
それに対してのモンドリアンの答え、
「いや既にこれらの形は十分に振動している」
作り話としてもよくできている。これは制作を通じて得た感受性や思考法で世界を解釈していこうとする表現者としてのものの見方をよく表してもいる。
しかしこの個別の認識に自己を託すという態度を貫くのが芸術家の役目ではないかと思う。偏狭に陥るという危険性を自らに引き受けつつ。(画)
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三つの位相

ふわっと地上に降り立った人。その月に照らされて浮かび上がった顔を一気に彫った。

すぐ横にいる月に手をかざす人よりも手前に出すか、それとももっと奥に入れようかと迷っていたけれど、ふたりは違う位相にいるのだから気にすることは無い。そこは距離のないところ。二つの面があるだけだ。

明日はトワンの顔を彫ろう。彼が住む位相は面の傾きがまた違うのだろう。(K)

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生涯の色

絵を教えていると十人十色だという事がよく分かる。一人として同じ色感を持った人はいない。なのに色の識別となると、特殊な場合を除いてほとんどの人が同じ結論に達するのだから、これはまるで矛盾した話のように思える。
表出と識別の違いという事だろうか。
絵を描く為に役立つ色のセンスという事なら知識と技術の習得である程度の技能までは誰でも獲得できる。
ただ色の表現領域はその先にまだあって、洗練というだけでなく、技術ではどうにもしようのない段階、謂わば天性の、もっと言えばその人の個としての核心的な何かが現れる段階がある。
今は未だボンヤリとしか見えていないのだがそう確信している。いつかその領域に至る明瞭な道筋が見えたら。(画)
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月を浴びる

暑いので夕暮れから彫り始めた。すっかり暗くなるとコノハズクの声が響く。あれがそうかと最近分かった。それに対してフクロウの方がすぐに分かる。昔からホーホーと聞かされていた通りの声だ。

月の人のイメージは『白い人』と重なる。背が異常に高くてほっそりとしている。体は月に照らされて発光する。シルエットをくっきり出せば裸でも美しいだろう。彼に関しては性的な要素を表現する必要はない。霊的な存在だから。(K)

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すなどる人バリエーション

油絵の歴史はそのまま西欧の近代絵画史と重なる。
その描法の発明からたかが5百年くらいの、しかもその最後の百年に日本の油画の歴史が重なるが、それは当時のパリで流行した印象派の絵画思想の偏狭な写しに過ぎなかった。
でも本当の問題は美術史全体が発展進歩の歴史のように語られてきたその事にあるのではなかろうか。
それを論理化する為に例外として切り捨てられて来たたくさんの絵画はその非常に個性的で大胆な発想と独自性において優れている事が多い。
規範を現代のような近いところに求めてはいけない。何故なら僕はその現代の只中に生きている訳だからそれは結局自己撞着になるだけだ。
敢えて持つとすれば古代のような遠い場所に求める事。歴史を一足飛びに越えてしまえ。(画)
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月を彫る

どこから彫ろうかと三日間眺めていたが、月から彫り始めた。月に一番近く住む人の伸ばされた手の間に注ぎ込む光も彫った。月の光に照らし出されたものを一つ一つ彫っていこう。(K)

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