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40)カンルバン捕虜収容所への旅

Cimg99319月17日の朝、GMCの大型トレーラーに乗せられたウハチさんたちは、カンルバンにあるアメリカ軍の捕虜収容所に向かいました。
ソラノからバレテ峠を越え、サンホセまで110キロの旅です。それはこれまで戦ってきた戦場を逆に辿って眺めることにもなりました。

サンタフェからバレテ峠へ向かって国道5号線の急坂を上り始めると、サラクサク峠に続くイムガン道が見えてきました。輜重隊が激しい砲撃の中を前線に輸送したルートなのです。それに、まだそこには死んだ仲間がそのまま放って置かれているのですから、何も想わずに眺めた人はいなかったでしょう。アダチ隊長もトラックの上でじっと目を閉じたと書いています。

バレテ峠を越えると、辺りの風景はすっかり変わり果てていました。黒こげの幹だけが立ち並ぶ焼け野原となった山並み、道路は道幅が2倍以上にも拡張されて脇には排水路まで作られていました。途中の数カ所に大型ブルトーザーが20数台も整然と並んでいるのを見て、人力だけで道路を作ってきたウハチさんたちは改めて戦力の違いを思い知らされたそうです。

平野部に下りてサンホセから先は、こんどは鉄道に乗り換えさせられました。マニラの南50キロにあるカブヤオまでです。
屋根のない貨車にぎっしり座っていると、そこにカービン銃を持ったアメリカ兵が護衛兵として一人乗り込んできました。
ゆっくり走る列車に向かって、沿道に詰めかけた現地の人たちから絶え間なく罵声が浴びせられます。
よく分るようにとわざわざ日本語で叫んでくる声もあるのです。

手記を残している人たちの多くが、その罵声の耐え難さについて書いていますが、その中でおもしろいのがありました。
あまりに口汚く罵られるのでみんな下を向いてしまっているのを見たアメリカ兵が、
「何をしょげているんだよ。お前たちも言い返してやれ」と元気づけてくれたそうです。それからはその貨車だけはみんな顔を上げて、罵声にも動じなかったと書いてありました。捕虜という身分がどういうものなのか、これからどういう扱いを受けるのか、将校と一兵卒ではこれからの処遇を考えたときにその緊張や不安は、人によってずいぶん違っていたかもしれません。

ラグナ湖の西に広がる平地カンルバンでは、周辺の甘藷畑をきれいに整地してカーキ色の大型テントが立ち並ぶ大規模な捕虜収容所ができていました。日本軍の捕虜を収容するために急いで作られたものです。

捕虜生活の長さは人によってまちまちで、ひと月後の10月にもう日本に帰ることのできた人もいますが、2年近くもここに留められていた人もいたのです。そういう人は戦犯の疑いが晴れなくて、なかなか帰してはもらえなかったのでした。
ウハチさんがここカンルバンでずいぶん永い間暮らすことに自分がなるとは、着いたその日には思ってもいなかったでしょう。


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39)アメリカ軍の捕虜になった日

Cimg9685ウハチさんたちの輜重隊が山を下りたのは9月15日のことです。
「それまで1ヶ月もアンチポロで何をしていたんですか?」
「ただ食いつないでいただけだけどね、まだ輸送任務もあったんだよ。3RHに物資を受け取りに行ったりもしたしね。山道を登って行く途中で偶然に方面軍司令部の参謀たちに会ったよ。アメリカ軍に投降するために山を下りているところだった」
「その中に山下大将もいたんですか?」
「いや、山下だけは1日早く下山したそうだよ」
山下奉文の8月31日の投降で、ルソン島の戦闘は完全に終わったことになりました。

その同じ日に南アンチポロでは、撃兵団の合同慰霊祭が行われていました。輜重隊からは石田輜重隊長と山田大尉が代表で参列しています。
ルソン島上陸からわずか8ヶ月の間に82パーセントもの戦死者を出した撃兵団なのです。生き残った人たちの祈りは悲痛だったでしょう。

投降に備えて兵隊たちがまず何をやったかと言うと、銃身にはめ込まれていた菊の紋章を削り落とす作業です。
それは、天皇の印としての紋章を決して敵の手に渡して汚されてはいけないということのようです。今の時代の私たちからすれば実感を持って想像することができないものですが、日本の軍人として何よりも大事なものがそこにはあったのでした。

ウハチさんも紋章を削ったはずですが、夏の縁側での話題の中では、天皇に直接触れるようなことはありませんでした。ウハチさんは、いつもどこか話しの仕方に用心深さがあったように思います。それは時代や状況があまりにも違う私たちに、自分のほんとうの気持ちを語ることで、誤解されたり不仲になることを怖れてのことかと思っていましたが、今思えば、ウハチさんの気持ちにもいまだ揺れ動いて定まらない部分があったのかもしれません。

アンチポロはずいぶん山奥でしたので、武装解除を受けることになっているイブン小学校というところまでは、途中の山中で1泊しなければなりませんでした。
次の日の夕方に到着した小学校の校庭では、日本軍の小銃がまるで鉄くずのように山積みされていきました。
部隊もバラバラにされて、互いに全く知らない人同士のグループに分けられました。日本軍の組織を完全に解体するわけです。
それからウハチさんたちはトレーラートラックの荷台に乗せられ、その夜のうちにソラノのアメリカ軍仮収容所に運ばれたのです。
小さなテントが立ち並ぶ収容所では、捕虜としての最初の食事の缶詰が配られました。


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