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38)戦争が終わった日

Dscf0189南アンチポロの密林の中で迎えた終戦の日のことを、ウハチさんは話してくれました。
ウハチさんたちはその朝いつものように食事の準備をしていたそうです。
「その日はね、朝から妙に静かだったんだよ。いつもなら朝から聞こえる砲撃や銃声がどこからも聞こえなくて、グラマンもP38もぜんぜん飛んで来ないんだ。そろそろ戦争は終わりそうだとは思っていたけどね、これがそうかと思ったよ」
「もう分ってたんですか」
「そうさ、みんなもそう思っていただろうけど、誰もそんなこと口に出しやしないよ」

8月15日の朝、北アンチポロに展開していたアメリカ軍が一斉に後退を始めました。アンドントッグ方面にどんどん後退して行く様子なのです。
「最前線だったところからは大きな煙が3本も立ち昇っているしね。そしたら次の日に飛行機がビラを撒いていったから、いよいよかと思ったよ」翌日の16日にアメリカ軍のC51双発輸送機が撒いた大量のビラには、
『永久講和なる。兵士は将校のもとに集れ。将校は上官の命令を受けよ。』と、ただそれだけが書かれてあったそうです。しかしいまだに数万という兵隊が山の中で自給自足の生活を続けながら、まだゲリラ戦をやろうとしていたのですから、その日本軍を混乱なく平穏に下山させて収容できるかどうかが、アメリカ軍にはいちばん心配でした。武装解除は、時間をかけて慎重に進められました。戦争が終わるまでの手続きの永さは、戦争をやっていた時間と同じか、それ以上にかかっています。

戦争がどうやって終わったのか、本当の所はわたしも漠然としか知りませんでした。広島と長崎に原爆が落とされたのを脅威に感じた天皇が、あの「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」と書かれた「終戦の勅令」を出したから戦争は終わったのだろうと思っていました。実際に日本から遠く離れたルソン島のアシン渓谷の奥地3RH(第三レストハウス)にも、その勅令は届きました。十四方面軍司令部が最終的にあった場所です。
すぐに各師団の参謀長が招集されたので、「撃兵団」からも新藤参謀長が山越えして出かけていきました。山下大将から直接の戦闘中止命令を受けて、「終戦の勅令」の写しを渡され、数日がかりでまたアンチポロに帰ってきました。この勅令がさらに謄写印刷されて輜重隊本部に届き、ウハチさんのアダチ中隊にも一部配布されたそうです。1週間後の8月23日のことです。

アメリカ軍の使節が「撃兵団」の司令部にもやって来ました。投降の段取りを指示するためです。その時通訳として同行していたのは戦争の早い段階で捕虜になった日本兵だったそうですが、その人が参謀の飯盒を覗き込んで、
「日本軍はまだ芋粥ですか」と言ったのを横で見ていて、その無神経なもの言いと丸まると太った姿が不愉快だったと書いてある記録がありました。敗者と勝者のどっちに付いているかで、同じ日本人であっても気持ちも態度もすっかり違って見えるのでした。

それでも戦争が終わった瞬間はどの人もうれしかったようです。無事に通訳をやり遂げてアメリカ軍陣地に帰り着いたその人を囲んで、大きな歓声が上がったということですから。そして控えめな表現ですが、「正直ほっとした」と書いているアダチ中隊長も、ウハチさんといっしょに終戦の日を喜んだはずです。


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37)アシン渓谷の在留邦人

Dscf0052_2アシン渓谷に逃げ込んだ在留邦人は2000人ほどでしたが、その人たちのほとんどが日本軍がルソン島に上陸する前の、アメリカ領の時代から暮らしていたのです。もうすっかりフィリピンの生活にとけ込んでいたはずの人たちが、どうして日本軍といっしょに敗走しなければならなかったのかと思ってしまいます。

在留邦人の人たちは最初は皆いっしょに避難したそうです。それまで住んでいた家も築き上げた財産も、小さな荷車には乗せられません。やがて車も通れない山道になったので、さらに荷物を減らさなければなりませんでした。避難生活が長引くにつれて、老人からだんだん亡くなって行きました。子供だけが残されていたりしたそうです。

「ルソン戦記ベンゲット道」(高木俊朗著)のなかに在留日本人の家族の凄惨な逃避行のことが出ています。逃げるのに着の身着のままのワンピース姿の奥さんが、山中を彷徨っているうちに夫を失い、可愛い女の子を二人連れて密林の中の小屋で、チョコレートの空き缶で蛙と雑草を煮て食いつないでいた、やがてこの人も病に倒れ、二人の女の子が母の死を看取るという場面を読むと、ウハチさんの話しには出て来ない戦争の裏側の出来事に胸が塞いでしまいます。

フィリピンはずっとスペインの植民地だったのが、1898年にアメリカに売却されたのです。国が売りに出されるということにも驚いてしまいますが、そういう交渉を自分に有利に進めるためにいつも戦争をしているようです。ちょうどその頃に、日本人の労働者がルソン島に渡ったのでした。ルソン島の「ベンゲット道」の開通までにはたくさんの犠牲者が出たそうです。あまりにも過酷で危険なのでとても無理だと思われたのですが、日本人ならできるということで呼び寄せられたのでした。そして開通した時は皆抱き合って喜んだのだそうです。

その後そのまま住み着いたその人たちが家庭を築きやっと安定して来た頃の1942年に、今度は日本軍がフィリピンに上陸したのです。日本の占領はわずか数年のことですが、ルソン島に住んでいた日本人の生活は大きく揺さぶられたのに違いありません。彼らの息子たちも現地召集されました。移住しているとは言っても、日本人としての誇りはいつまでも持ち続けていたのです。しかし8割以上の戦死者を出しているのですから、この青年たちもほとんど生きて帰っては来ませんでした。


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