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28)サリナスの塩

0224「『撃』はね、バレテとサラクサクの後
 すぐに山に逃げたわけじゃないんだよ。サリナスでも戦ってるんだ」
「えっ、サラクサク峠での戦闘でそうとうやられたんでしょう?まだ戦えたんですか?」と、驚いてしまいました。イムガン川でも、かなりの兵隊が溺れたと聞いていたからです。

「たしかにもう『撃』は壊滅的だったけどね、それでも再編成すればまだ戦えると見られたんだよ」
「再編成ですか、、、武器や弾なんかまだあったんですか?」
「日本は戦車から重機関銃を外してそれを持ち歩いてまでして戦っていたんだ。
 こっちはわざと地形の悪いところに陣地をはっていたわけだね、、、」

「、、、サリナスは最後の決戦だね、あれで負けて完全に戦力を使い果たしちゃったんだ」

サリナスを地図で探すと、軍司令部がバギオから山越えして逃げたルート上にありました。
「やっと持ちこたえていた輜重隊も、あそこではずいぶんマラリアと熱病で死んでるんだよ」
輜重隊の兵隊は3人ひと組になって、牛用の荷車を引いて運んだそうです。増水した川を渡るときには、またもや背負子での人力輸送でした。

そんなボロボロに疲れていた輜重隊に、司令部から特別の任務が届きます。すでに敵兵がいるサリナスに忍び込んで、製塩所から塩の袋を運び出してこいというものでした。これから山岳地帯を通って転進して行く部隊にはどうしても塩が必要でした。

「まだ動ける元気な輜重隊の兵隊は、全員で紐だけを持って
 他に何も持たず丸腰で出かけたんだそうだよ。
 暗い中をずっと匍匐前進で何とか敵に気づかれずに運び出したところで、
 軍用犬に嗅ぎつかれちゃって、一斉射撃を受けたんだそうだ。
 それでも全員無事に帰還したんだからね、ヤマモト中隊も大したもんだよ。
 あの塩がなかったら後の行軍で確実にもっと死んでたな」

ルソン島の日本軍には、食料だけではなく塩さえも不足していたのです。6月20日の深夜のことでした。


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27)軽油エンジン

Scan20070218_234537「軽油はけっこう残っていたんだけど、ガソリンが真っ先に足りなくなってね」
軽油を使うはずの戦車はすぐに壊滅しましたから、軽油の入ったドラム缶は山のように積まれたままだったそうです。しかし輸送用の車両はすべてガソリン車だったので軽油は使えません。しかもガソリンは輸送船の沈没でルソン島には当初から運び込む量が不足してもいたのでした。
「じゃあ、どうしていたんですか?」
「整備隊がガソリン車のエンジンを改造して軽油でも動くようにしたんだよ。
 それからはずっと軽油とガソリンを混合したのを使っていたんだ」

バレテ峠がまだ突破されていなかった頃、そこから北西に30キロほどのジャングルの中では、兵器の製造や車両の修理や整備などが行われていました。兵隊の中にはいろいろな技術を持った人や職人や学者なども混じっていたのです。

戦場の限られた設備でやるのですから、何度も試作を繰り返して改良を重ねます。しかも使う材料探しも、昼間はアメリカ軍の飛行機が偵察して回っているので、夕方から集めて回ったそうです。

最初は薪を燃やして動く車も開発したそうですが、炉に使ったドラム缶がすぐにさびてしまって1ヶ月しかもたなかったそうです。ガソリンエンジンを軽油エンジンに改造するのには、シリンダーヘッドの内部に砲弾の薬莢を加工したものを埋め込みシリンダーの内圧を高くする工夫をしたのだそうです。さらに軽油の粘りをとるために温める必要があったので、燃料パイプを排気管の中を通したり巻き付けたりと、まさに手作りのエンジン工場です。それでも始動するときは軽油だけでは無理で、ガソリンをキャブレターに直接注入してエンジンを回したそうです。

整備隊の手記を読むと『前線の兵隊のことを思えば、20時間労働でも平気だった』とも書いてあります。バレテ峠のすぐ近くで異常な熱意と集中で働き続けている兵士たちがいました。この整備隊からも三分の一の兵員がサラクサクの戦闘にかり出されてそこで歩兵部隊に混じって戦闘しやがて全滅しています。その死地に赴いて行った仲間たちのことを思い、作業にさらに身が入ったそうです。

他にも迫撃砲弾や手榴弾を自作したりなど危険な作業もありましたが、しかしそこでもすでに食べ物は乏しく、食料不足で体力が低下して病気になったり、製作中に火薬や燃料の取り扱い事故で吹き飛ばされる兵士もいたのでした。

100日も陥落しなかったバレテ峠とサラクサク峠の後ろには、輜重隊の必死の人力輸送と、兵器や車両を改良したり作ったりしていた整備隊の存在があったのです。しかしこの整備隊の工場も、6月1日には閉鎖されました。満州からずっと使い込んできた工具や設備を穴に埋めて、必要最低限の工具だけを持って出たそうです。

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26)本隊追求

Scan20070216_225308「おれたちはね、アダチさんのいる元々の部隊に戻ろうと思って山越えしたんだよ」
アダチ中隊はサラクサクの戦闘で半分に分けられたままでした。ウハチさんのいた残留部隊はサラクサク峠の陣地への人力での荷揚げ部隊でしたが、アダチ隊長率いる部隊の方は軽戦車とキャタピラ式の輸送車やトラックを使った輸送任務についていたのです。
「アダチさんって、元々の上官だった人ですよね」
「やっと自分の部隊に合流できたときは嬉しかったなあ」
しかしその頃には、バレテ峠を越えてすぐ近くまでアメリカ軍の戦車隊が近づいていました。

6月4日の夜、アダチ中隊長は独自の判断で、ドバックスを引き上げることにしました。
「もうアリタオまでアメリカ軍が来てるって情報が入ったんだよ。8キロしか離れてないんだ。北に逃げるしかないよ」
イムガン川を下った撃兵団はサリナスでの戦闘準備に入っていたのでしたが、そこまでの輸送ルートが完全に分断されようとしていたのです。

「アダチ隊長がね、 おれたちの中隊だけで残っている食料と燃料をずっと北のキャンガンまで運ぼうというんだよ。
アメリカ軍は毎日10キロづつこっちに近づいているのが着弾の仕方で分るから、のんびりしちゃあいられなかった」

軽戦車を先頭にして、その後ろからキャタピラ車1台、装甲車が1台、それから15台のトラックが続きます。兵員は90名ほどだったそうです。
ライトをつけることはできませんから、暗闇のなかを砲撃で道路に穴が開いていないか確かめながらゆっくり進んで行きました。
積み荷は、ドラム缶15本の燃料と食料でした。あとは無線機と発電機とバッテリーです。この時も、武器や弾薬よりも食料が最優先されていました。

全滅状態の中で分散して撤退した兵隊たちは、本隊に合流できずに彷徨っていた人も多かったのです。それでもなんとか大隊や司令部のある方へと手探りで北進して行きました。本隊に追い付きさえすれば何とかなると思っていたのです。食料が乏しくなった戦場で生き残るには、いつも大人数であることと、自分が今いる部隊が元々の所属部隊であることが何よりも安心なことだったのです。
戦場では、自分の部隊が故郷や家族の代わりだったように思えます。

6月に入ってバレテ峠を越えたアメリカ軍は国道5号線の道路を、その頃日本人がまだ知らなかったブルドーザーを使って拡張しながら、じりじりと北上して来ていたのでした。そのルート上にある村や町はゴーストタウンのようになってしまいました。ルソン島に移り住んでいた在留邦人の民間人さえもが日本軍の敗走(北進)といっしょに北部山岳地域へと逃げ出していたからです。

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25)イムガン川

Scan20070214_204400「司令部はそのあとどこに行ったんですか?」
「ずっとバギオにあると思ってたんだけど、4月にはもうバンバンに移ってたんだね。
 最後はずっと北のキャンガンの山の中にあったらしいなあ」

司令部を守るためにバギオの周辺に配置されていた部隊にも知らされていなかったそうです。報告に行った兵隊が、そこに司令部がないのを見て驚いたという話が残っています。混乱と焦りの中で動いていた司令部の人たちの顔が浮かんできます。その頃は電話ケーブルもあちこちで寸断されていましたし、無線機も破壊されたり充電ができなかったりして使えない部隊も多かったのです。そんな状況の中では、どの部隊もお互いの連絡どころか、重要な司令部からの命令さえ受け取れなかったのでした。

サラクサク峠から撤退する時にも輜重隊だけは背中に食料や弾薬を担いで暗闇の中を下りました。
「おれたちは最後までまとまって行動したから良かったけどね、
 山の中に入ったっきり終戦まで出てこなかった部隊もあったんだよ」
と、本隊からはぐれて行動していた人たちのことを話してくれたのです。
それは軍隊の秩序の崩壊のことでした。

生きて行くためには敵のものばかりでなく、死んだ日本兵や、ときには弱った仲間からものを強奪する兵隊もいたらしいのです。
「おっかなくて一人でなんかいれないよ。
 山ん中を歩いていると、突然2、3人でふらっと現れるんだよ。
 『どこの部隊だ?』って聞くんだけど、はっきり言わないんだよ」
「気持ち悪いですね。それ日本兵なんですか?」
「そうだよ。部隊から離れてしまって、どうやって生きているか分んない連中だよ」

兵隊たちは、もう雨期に入っていて水かさが増えているイムガン川を、胸まで浸かりながら30回以上も渡り返して北へ進んで行きました。生き残った兵隊にもマラリアや発熱で動けない人も多く、負傷した兵隊でも自分で歩けない人はそこに置き去りにするしかありませんでした。片足を無くした松葉杖の兵士が濁流の中を渡ろうとするので、部下に指示して支えさせたという記録も読みました。どの人も飢えと疲れで、自分の体をやっと動かしている状態だったのです。

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24)重見支隊

Scan20070213_200217_1ウハチさんの話をここまで聞いてきて、やっと軍の組織の全体が見えてきたように思いました。
「ということは、ウハチさんたちの撃(げき)兵団は十四方面軍の指揮の下にあったわけで、
 そしたら司令部命令というのは、山下大将が出していたんですね」
これはずっと気になっていたことでした。この無謀で凄惨な作戦計画は誰が立てたのだろうと思っていたからです。
「でも司令部というところには参謀(さんぼう)たちがいるからね、
 作戦を立てる時に参謀の意見がずいぶん影響したんだってよ」と夫が言うと、ウハチさんもうなずきながら、
「そうさ、シゲミ支隊が玉砕(ぎょくさい)したのだって、山下大将のまわりにいた参謀が悪かったんだよ」
「シゲミシタイって?」
「シゲミ少将が『撃』から出向く形で『旭』に行ったんだよ、戦車第7連隊を引き連れてね。
 アメリカ軍がリンガエンから上陸したばかりの頃さ。
 でもね、他に行かされると必ず前面に出されて死ぬような目に遭うんだよ。
 あれが戦車部隊が負け始めた最初だね」
ウハチさんの口から出てくるこの「シゲミ」という音には何か特別の感情が込められていました。それが何なのかすぐには分かりませんでしたが、
「シゲミさんはね、戦車は歩兵部隊のいない夜間突撃作戦には向かないって反対したんだよ。
 それで司令部とぶつかっていたんだ」と、同情しているように見えました。

 重見支隊のことは、どのルソン島の戦闘記録にも必ず書かれてあります。そこには未だに解決していない何かわだかまったものがあるようなのです。アメリカ軍とルソン島西海岸で対峙したこの初期の作戦では、山下大将の側近同士でもその戦略の是非をめぐってもめていたようです。アメリカ軍のものすごい数の飛行機と大型のM4戦車に対して、全く空からの援護のない戦車隊です。しかも小さな八九式中戦車(ハチ車)では太刀打ちできるはずもなかったのです。

しかし司令部の思惑通りに攻撃に出ない重見少将にとうとう方面軍司令部への出頭命令が出てしまいます。これは命令違反の罪で支隊長を解任、さらに軍法会議にかけるということなのでした。一方、司令部と重見支隊との暗号電文でのやりとりを聞いていた『撃』の師団長は重見少将の立場を察して支隊がもとの師団へ復帰できるよう願い出ていました。やがてその許可が下り、師団の方では大喜び、すぐ支隊にその旨の連絡をしたということです。しかし支隊は特攻攻撃に出て部隊は全滅、先頭の戦車に乗り込んで突撃の指揮をとった重見少将は戦死してしまいました。

記録が錯綜していて、よく分からない部分もあるのですが、どうやらこの司令部からの出頭命令も、師団からの原隊復帰命令も、そのどちらもがシゲミ支隊には届いていなかったらしいのです。もともと夜間の戦車だけの突撃命令に反対していた重見少将が、なぜ突然全部の戦車を引き連れての玉砕攻撃に出たのかがけっきょくわかりません。
もしかしたら司令部からの出頭命令が届いていなくても、このままでは命令違反で軍法会議にかけられるのは間違いないと重見少将は思っていたかもしれません。地位も名誉もなくしてしまうのならばいっそ軍人として華々しく死んで行こう、という自殺的行為に向かったとも考えられます。または現場の作戦指導者として、周囲の状況からこれ以外の行動選択の余地はないと考えたのかもしれません。

ウハチさんの本棚には戦友会から出された記録や手記の他に、「ルソン戦記・ベンゲット道」(高木俊朗著)という分厚い本が残されていました。生き残った兵隊たちから取材して書かれたルポルタージュです。兵隊たちからは見えない部分、後方の司令部内の様子が特に細々とあばくように書いてありました。
上官命令で斬り込みに何度も行かされたウハチさんには、重見少将が司令部命令に最後まで抵抗しながらも、とうとう意を決して突撃して行った気持ちが良く分ったのだと思います。

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23)ヤマシタ道

Scan20070212_022131_1 「まあ今でこそ言えるんだけど、サラクサク峠の戦闘は、
軍司令部が逃げるための時間稼ぎもあったんだね」と、ウハチさんは言います。
「司令部って、どこのですか?」
「山下大将のいる十四方面軍司令部だよ。最初バギオにあったんだ」バギオはルソン島でも高地にある風光明媚な観光都市で、日本がフィリピンを占領してからは軍司令部をここに置いたのです。
「ヤマシタね、名前は聞いたことはありますけど、どんな人ですか?」
「日本が最初に連戦連勝した時に『マレーの虎』と呼ばれた有名な陸軍の将軍だよ。
 満州にいた関東軍の大将だったんだけど、『ゲキ』がルソンに来る少し前に着任してるんだよ」
「もう終末戦になっている段階で、またどうしてそんな人を?」と聞くと、それまでウハチさんとのやりとりを聞いていた夫が、
「その頃はね、大本営はフィリピンのレイテで一大決戦したかったらしいよ。
 それなのに当時のフィリピンの軍司令官が反対していたんだそうで、
 それを解任して『マレーの虎』で名を馳せた山下奉文を持ってくれば、
 うまく納まるんじゃないかと考えたんだって」と、横から解説を入れました。

バギオから山越えして東のピンキャンに抜けるルートは、サラクサク峠から北に直線距離で30キロほどのところにあって山岳地帯を東西に横切る山道です。
「じゃあ、すべての命令はこの人から出ていたんですね。ひょとしたら
 その山下大将たちは自分たちの脱出ルートを確保させるために
 回りの布陣を決めていたわけですか?」
「そりゃあ、戦争っていうのは大将を守らないと負けだからなあ」ウハチさんは、そうともそうでないとも言いませんでした。

その道は狭くて険しい山道で、そこを使って食料の米をバギオまで運ぶには牛車を使うしかなかったということです。それで急ピッチで道路の拡張工事をしていたのですが、皮肉なことに工事が完成した日に最初にそこを通ったのは、山下大将以下の司令部で、バギオからの脱出に使ったのでした。たった一度、逃げるために片道にしか使われなかった自動車道が「ヤマシタ道」と呼ばれた道でした。

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22)十国犬(ジッコクケン)

Photo_3 「おれは子どもの頃から犬とは馴染みがあるんだよ。うちでは犬をたくさん飼ってたからね、『ジッコクケン』っていうんだ」
「どんな犬なんですか?」
「ちょうどこの犬くらいの大きさだけど、首の後ろからずっと尻尾の先まで毛が黒い縞になってるんだよ。そんなに大きかないけど気が強い犬でね、おれなんか怖くて近づけなかった。子どもだからってバカにして唸るんだ。親父の言うことだけは良く聞いてたなあ」
鬼石(おにし)の旧家だった屋敷の庭には、多い時には20匹近くの十国犬が放し飼いにされていたそうです。

十国峠の群馬側の山里で狩猟犬として飼われていた犬が、その地方だけの純粋種になっていったものらしいのです。
「今もウハチさんの実家ではその十国犬を飼っているんですか?」
「もう数匹になっちゃってたし、実家の兄貴も一人暮らしで世話ができないからって、最近県の方に譲ったらしいよ。今は群馬県の繁殖施設で飼われてるはずだ」

ウハチさんが言うには、犬にはそれぞれの種類で気質が違っていて、犬の顔を見ればそれがどんな犬かすぐに分かると言うのでした。
「この犬も野良犬だったにしては良い犬だと思うよ。かわいそうになあ、どうせ子犬が腹に入っているから捨てられたんだろう。これだけ気が強いから生きて来れたんだと思うよ、頭も良いし」と、ずいぶんな褒め方をします。

飼い始めてから分かったのですが、うちに迷い込んだその犬は、この辺りの部落を何ヶ月もウロウロしていたらしいのです。散歩をさせていると、「この犬知ってる」とか、「うちでもご飯をやったことがある」とか、あちこちで声がかかりました。「良かったわね、いい人に飼ってもらって」と言われたこともありますが、中には「もう捨てないでね」と、妙なことまで言う人も出てきました。

しかしだんだんお腹が膨らんできた時には、さすがに焦ってしまいました。
それでも産まれた4匹の子犬は可愛くて、毎日夫とおもしろがって世話をしていました。成長しはじめた子犬たちが庭を掘り返す度に大声で叱ったりしていたので、毎日庭で繰り広げられるそんな大騒ぎがウハチさんの家の2階の窓からは良く見えていたはずなのです。わたしたちに声をかけてくれるようになったのはその頃でした。

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21)ナタデココ

Scan20070208_210745 ウハチさんはいつも門の所で声をかけてから庭に入ってきます。縁側から顔を出すと、ちょうど犬が駆け寄って行くところでした。そばまで近づいた犬はウハチさんの手のあたりに向かって、ぴょんぴょんと跳ねています。手の中ものが自分のために持ってきてくれた食べ物 だと思っているのでしょう。
「あんたたち、こういうの食べたことあるかい?」と差し出されたものは缶詰でした。

「いえ、食べたことはないです」
「ナタデココ、フィリピンではこれをよく食べたんだよ。
 この頃流行っててね、懐かしいから時々買ってくるんだ。
 半分っこしようと思って持ってきたんだけど、
 おれの分はもう分けてあるからこのまま冷蔵庫で冷やして」缶切りで開けてあるフタの隙間から見ると、白っぽい角切りの寒天のようなものが見えました。すぐに冷蔵庫に入れに行って戻ると、もうウハチさんは縁側に腰掛けて犬を撫でていました。

「今日はおまえには持ってこなかったよ。また今度な」と話しかけています。犬もウハチさんの飼い犬のようにべったり足元に寄り添って寝そべっています。犬はすぐになついたのですが、ウハチさんの方はこうなるまでに少し時間がかかりました。

「おれは犬が好きなんだよ」と言うわりには、犬が手に残っている肉の臭いを嗅いだり舐めようとすると、慌てて手を後ろに引っ込めていたのです。もっともいつもさっぱりとしたシャツやズボンを着ていて一人暮らしとは思えない清潔な身なりをしていた人でしたから、犬の唾が付いたりするのを不潔と思ってもふしぎではないのですが、多すぎるほどの生肉を犬に与えている様子とは矛盾しているように感じたのです。

そんな様子を眺めながら、もしかしたらこの人には何かの理由で、肌と肌が触れ合うようなことをいやがる肉体嫌悪のようなものがあるのではないか?と考えたりもしたのですが、それも時間とともに変わって行きました。しかも極端なことに、
「この犬は他の犬とは違う、特別だ」とまで言うようになったのです。そして近所の犬に噛まれた時のことを話してくれました。
「ほんとうに強い犬は滅多に吠えないものなんだ。
 やたらに吠える犬は弱い犬で、脅えて怖いから吠えるんだ」犬には一定の鑑識眼を持っていると自負するのでした。

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20)撃兵団

Photo ウハチさんがよく口にした『ゲキ』ですが、その音には誇らしさといっしょに、懐かしさのような響きも伝わってきました。

戦争に負けたことや上官への恨みとは関係なく、ウハチさんの気持ちにいつまでも残り続けていたものが何なのか、それを考えながら聞いてもいたのです。砲弾を受けて死んでいたかもしれないし、飢えで生き延びれなかったかもしれない戦争の記憶が、どうしてあのように熱く語られたのかとふしぎに思います。それにウハチさんの話には、恐ろしさはあっても暗いものはあまり感じませんでした。

「その『ゲキ』っていうのは、どこの部隊のことですか?」
「おれたちの師団のことだよ。撃兵団って呼んでいたんだ」
それは戦車第二師団の秘匿通称名でした。それぞれの兵団に付けられた名前は、いかにも勇ましい漢字が当てられています。

他にもルソン島には、「駿」「盟」「旭」「勤」「鉄」「虎」など10以上の兵団や師団が配備されていたそうです。その中でも撃兵団は満州で特別に訓練された精鋭部隊だったのです。
総人員9403人に、戦車220両、1500台のトラックに火砲や速射砲などを積んで移動しながら戦う撃兵団は、それまでとは違う戦い方ができるはずだと大いに期待されていたそうです。

ところが撃兵団が到着する前からすでにルソン島では飢えが始まっていました。食料不足と戦局の悪化から、戦線離脱する将校まで出ていたそうです。航空隊司令官が飛行機で逃げた話まであります。かわいそうに、残された航空兵たちは前線に送られてほとんど戦死しています。上官の代わりに懲罰を受けたようなものです。そんなところに撃兵団は入って行ったのです。

「レイテ沖海戦もちょうどその頃ですよね」と、思い出したように夫が聞きました。
「そうなんだよ。あの頃レイテもガダルカナルも負け始めていたんだね」と、他人事のように言っているウハチさんでした。そりゃそうです、実際の戦場にいる一兵卒にとって、まわりの戦況など知る由もありません。上層部の一部の人たちが戦局を分析して戦略を練っていたはずなのですから。

地図を見てみると、レイテはルソン島のすぐ南にあって、とても近いのです。ルソン島の戦死者が8割を超えているのは、戦闘の激しさもありますが、飢えで亡くなった兵隊も多かったのでした。

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19)命令

Scan20070204_235936 「もうどの部隊も半分は死んじゃってたからね、
 兵隊が少なくなった部隊は他の部隊に編入されたりしたんだよ。」

サラクサク峠では、戦車隊や航空隊の生き残りの兵隊たちが歩兵部隊に編入されて戦っていました。そういう兵隊たちは、決まって最前線の陣地に配備されたそうです。そこでは直属の上官が替わるということは、死に近づくということに繋がっていました。

「やっぱり満州からずっといっしょに戦ってきた仲間の方が安心だし、
 チームワークだって良いんだよ。
 それに隊長だって最初っから自分の部下だった兵隊を大事に残しておこうとするわけさ。
 だから命令にも差を付けちゃうんだよ」そんな凄まじい状況ではないにしても、自分にも過去似たようなことがあったなあと思いながら聞いていました。
「そういうことって学校とか会社なんかにもありそうなことですねえ」
「そうだよ、会社だって同じだよ。
 上司が直属の部下ばかり可愛いがったりしてるけどね、
 生きるか死ぬかって時にそんなことしてたら判断を誤っちゃうよ。
 そんなやつには良い仕事はできないよね」と、切り捨てるように言いました。ウハチさんは戦争に行く前も帰ってからもずっと東電の社員でもあったのですが、きっと会社でも苦い思いをしたことがあるのでしょう。

「おれが何度も斬り込みさせられたのは、
 それまでずっといっしょだった隊長がいなくなってからだよ」と、その頃の上官や隊員の名前をいちいち挙げながら話してくれたのです。ウハチさんたちが本隊から離れてしまって、密林の中を6人ほどで転進している時のことです。軍隊の中では一人一人の階級が厳密に決められていて、いちばん上の人がいなくなれば、すぐ次の階級の人が命令権を持つのです。

「斬り込みったって、もうあの頃じゃ大して意味はなかったはずなのに、
 とにかく行ってこいだからね。死んでこいと言ってるようなもんだ」と、今でもまだそうとうに恨めしそうなのでした。もうその頃になると、司令部との連絡が途絶えてどの部隊もバラバラに分断されてしまっていたのです。孤立した小さな部隊の中での命令の中身は、隊長の人格によってずいぶん左右されたということのようです。

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18)接近戦

Scan20070203_205006 「それでもおれは砲弾の破片を受けただけで助かったんだからね。
 生きて帰れたこと自体ががめずらしいんだよ。
 敵に包囲されている陣地の荷揚げなんかだと、3人で出かけて帰りは2人になっちゃう」
「つまり一人は途中で死んだんですか?」
「そうだよ。荷揚げのルートにも砲弾が打ち込まれていたし、
 最前線の陣地なんかには近づくことだってほんとは無理なんだ。
 アメリカ兵の見張りが近くでうろうろしてるのが見えるんだもの」
「そんなに接近して戦っていたんですか?」
「手榴弾の投げ合いとか、銃剣突入とか毎日だよ。
 工兵隊なんかは坑道作戦をやってたんだ。敵陣のすぐそばまで穴を掘っていって、
 一挙に爆破するというやり方だよ」
同じことをアメリカ軍もやっていたそうですが、それを察知して相手より先に掘り進むのです。音を立てずに息を殺して暗い穴蔵に入っている兵隊たちの姿が浮かんできました。

「でもそんな所にいつまでもいたらみんな死んでしまうじゃないですか。
 撤退命令というのはぎりぎりまで出ないものなんですか?」
「そりゃそうさ。司令部の考えは、前進基地とはまた違うんだよ」戦闘が激しくなればなるほどありそうなことです。
「逃げ場を失ってしまって玉砕した陣地もあるんだ」

危機的な状況の中で、司令部はいろいろと焦ってはいたようです。急に現場の指揮官が後方の司令部に呼び戻されたり、反対に自ら司令部に戻ってしまう指揮官もいました。そういう指揮官に対しては、懲罰としてさらに危険な戦闘地域に配置換えされたりしたということです。

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17)体に刺さった鉄片

Scan20070202_141843_1「そのときの破片がおれの体にはまだ入ってるんだよ」
「どこに?」と、ちょっと得意そうな顔して縁側に座っているウハチさんの胸から足元までわたしは見回しました。
「大きいのはアメリカ軍の病院でとってくれたんだけど、
 小さくて完全に取りきれなかったのが腰のあたりにあるんだよ」
「そのまま放っておいて痛くないんですか?」
「梅雨時になるとどうしても痛くなるね」と、腰の横に手を当ててさすってみせました。
「慶応病院に専門の先生がいてね、いろいろ診てくれたんだけど、
 結局これしかないという特別な注射を打ってもらってるんだよ。
 背中のここらへんに打つんだけど、それが太い注射でね、そりゃあとっても痛いんだよ。
 でもそれをやればひと月楽になると思うから我慢するんだ。
 ただその注射は月に1回しか打っちゃいけないものなんだってさ」

こういう話しを聞いていると、わたしはどうしても顔が歪んでしまいます。そうするとますます調子に乗ってくるところが、ウハチさんのやんちゃなところでもありました。ニヤッと、もっとおもしろいことを聞かせてやろうかというように、
「捕虜収容所から出されてアメリカ軍で働き始めた頃にね、
 『どうも息が苦しい』と言ったら、同僚のアメリカ兵が『軍医に診てもらえよ』
 と言うので軍病院に行ったのさ。
 そしたら肺に刺さっている破片が見つかったんだよ。
 でももうすっかり肺にめりこんじゃってて、これを手術で取り除くのは無理だと言うんだ。
 でも放っておいたら生きられないってね」

自分でけがをした傷口を見ても心細くなってしまうのに、その話しを聞いているときのわたしの顔はきっと青ざめていたと思います。でも聞かずにはいれない、
「で、どうしたんですか?」目の前にウハチさんが生きているということは、その時何とかしたのでしょうから。
「軍医が変わった人でね、
 『おまえが承諾すればやってみたいアイデアがあるんだが』
 って言うから、仕方がないから『何でもやってくれ』って言ったよ」

そのアイデアというのは、強力な磁石を使って少しづつ破片を外に引っ張り出すというものでした。
「床に固定した椅子に座らされたんだよ。背当ての方を向いて椅子に股がってね、
 背当てと胸を紐でぐるぐる巻きに固定された。ぜんぜん身動きができないんだ。
 それから磁石の機械を少しづづ様子を見ながら限界の距離まで背中に近づけるんだよ。
 すると体の中でその鉄片がほんの少しだけど動くんだね。そりゃ痛いなんてもんじゃない。
 そういうのを毎日毎日数時間、まるで拷問だったよ」

何ヶ月も続いたこの治療は、ミリ以下の単位で肺の中の鉄片は背中の方へ少しずつ移動させるというものでした。治療に使われた大掛かりな機械も、わざわざその為だけに作られたものだったそうです。その異様で画期的な治療方法を見るために、方々から視察団が見学にきたそうです。
「ずいぶん偉い人たちが見に来てたらしいよ。おれはただ唸ってたんだけどね」
わたしはもう聞いているのがやっとでした。この日はすっかり気持ち悪くなってしまいました。

その鉄片は、肺から引き出されて手術し易い場所まで移動されてから取り除かれたそうです。
アメリカ軍と殺し合いをしたウハチさんなのに、そのアメリカ軍に今度は苦しめられながらも助けられたのでした。

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16)サラクサク峠(脱出)

Scan20070201_025632「すぐに、どの部隊も夜しか行動できなくなってたんだよ。
 しょっちゅう空母から飛行機が飛んできてたからね、
 みんな『こっちにも一機でも飛行機があればなあ』って言ってたもんだ」
空からの攻撃を常に警戒しながら、地上ではゲリラや探知機にびくびくしながら行動したそうです。

日が沈んでから夜明けまでが活動時間だったのです。戦車やトラックも、昼間は竹やぶの中に突っ込んだり、マンゴーの巨木の下に隠してありました。山のあちこちの陣地で戦っている兵隊たちも昼間は横穴の中に隠れていて、夜になったらまた砲台を据え付けて砲撃を開始するという戦い方でした。

「飯も簡単に炊けないんだよ。煙が上っていると爆撃の目標にされちゃうからね、
 月夜もだめだったね。それでやられた陣地もあったんだ」
「じゃあ食べ物はどうしてたんですか?」
「夜に炊いたり、煙を散らしたり、とにかく気を抜くことはできなかった。
 敵に包囲されている陣地には三日も四日も食糧を運べなくて、
 守っている方も必死だけど、届ける方だって命がけだよ」敵の真正面で戦っているのに、弾薬の補給よりも食糧の方が足りなかったという悲惨な状況だったのです。
「やっと届いた籾米を鉄兜の中で棒で突いて殻を取り除いて炊くんだ。
 炊くことができないときは、そのまま米をかじることだってあったんだよ」

サラクサク峠から2キロほど東に下った所に輜重隊(しちょうたい)のイムガン集積所がありました。弾薬、食糧が置いてあるのです。もちろん樹木の生い茂る場所ではあったのですが、ある日そこにも敵の偵察隊がやってきたのです。しかし、手榴弾を投げるだけであっさり引き揚げて行ったのを怪しんだミヤニシ中隊長は、自分の判断でその日のうちの撤退を決意します。司令部の命令がない限り後方に下がるということはできないらしいのです。

「あれは危機一髪だった。ミヤニシ中隊長がすぐに脱出しようと
 決めたからよかったけどね。輜重隊は夜に動いていたから、
 みんなが帰ってくるまでに時間がかかったんだよ。
 全員が戻ってきたのが12時で、やっと準備ができたのが3時だった。
 でもその頃になると砲弾が撃ち込まれ始めたんだよね、
 それでもぐずぐずしてると明るくなっちゃうから、とにかく出発したんだ。
 道なんかないところを小さな隊に分かれて行ったんだけど、
 途中で夜が明けてしまった。じっと山の草むらに伏せて隠れたんだけど、
 それから敵機が何十機も飛んできて、集積所があった山ぜんぶが
 あっという間に焼け野原になったんだ。危機一髪だったよ。」

その時の脱出を指揮した宮西中隊長の手記が残っていました。そこには、夜明けと同時に40機ほどが焼夷弾を落とし、その後20機ほどで爆弾投下、さらに10機くらいで銃撃をしたそうです。ジャングルだったところが、わずか1時間ですっかり焼け野原に電柱が立ち並んでいるような風景になったそうです。5月26日の早朝のことでした。

これと同じ日、サラクサク峠の他の陣地でもたくさんの戦死者を出しながら撤退していきました。負傷兵を助けながら、さらに北へ転進を続けます。

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