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15)サラクサク峠

Scan20070202_160721_1 「サラクサク峠の戦闘って、バレテ峠とはまた違うんですか?」と、その時まで地図で確かめることもしないで質問していたのでしたが、
「両方で戦ってたんだよ、バレテが突破されないようにね。
 アメリカが北になだれ込んできたらおしまいだからね。
 サラクサクはバレテの西の方に伸びた尾根にあるんだ」と、ウハチさんはいつもていねいに説明してくれます。

補給基地は最初は南の方にあったのですが、1月9日のリンガエン湾からのアメリカ軍上陸後、どんどん北の山岳地帯に追い込まれて行きました。輜重隊(しちょうたい)も戦況が変わる度に弾薬や燃料や食糧の集積所を北に移動しなければなりませんでした。その輸送ルートの要(かなめ)がバレテ峠だったのです。しかしすでにリンガエン湾には空母や戦艦などが何百隻も配備されていましたし、規模も性能も格段にすぐれた長距離砲が常にバレテ峠に向かって砲弾を打ち込んできたそうです。

「バレテ峠を超えるあたりは南側がスッパリ切れている断崖なんだよ。
 だから敵から丸見えなんだ。こっちは荷台に燃料とか弾薬を積んでいるんだからね、
 当たればひとたまりもない。先頭のトラックがやられると、
 すぐ道の脇にある塹壕(ざんごう)に飛び込んで隠れるんだ。
 それから砲弾の落ちる合間をぬって車を谷底に落としてから
 また前進したんだよ。あんときゃあほんとに凄まじかったな」
連日連夜10日間かけて、やっと輜重隊は緊急輸送をやり遂げたのだそうです。終戦の年の2月のことです。

 「おれたちの師団はもう山岳歩兵隊になっちゃってたんだね。
 山の上に幾つも陣地を作って、それぞれが孤立して戦っていたんだよ。
 持久戦のかまえだったんだ。だからおれたちが運び上げる
 弾薬と米だけが頼りでね、ずいぶんありがたがられたもんだよ」

バレテ峠が5月9日には突破された後は、サラクサク峠にいた部隊は昼も夜も砲撃にさらされ続けたそうです。

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14)輜重隊(しちょうたい)

Scan20070129_204501_3 しばらくは、ウハチさんはルソン島でもずっと戦車に乗り込んでいたのだと思い込んでいました。
「戦車に乗っていたんだよ」と最初に言われた言葉を、わたしが単純に想像してしまったのです。それまで軍隊のことは何も知らなくて、映画やテレビで見たものからのイメージしか持ち合わせていなかったのですから。機甲師団にはいろんな車両があることや、その得意とする戦術についてもはじめて聞きました。

そして話がだんだん細かいことに進んで行った時に、
「おれは輜重隊にいたんだ」と聞かされて、
「シチョウタイって、何ですか?」と、話の流れを中断してしまいました。
「輜重隊はね、戦車隊の後方支援をする任務なんだ。
 キャタピラ式の装甲車やトラックで前線に弾薬やら食糧なんかを運ぶんだよ」
ウハチさんがいた輜重中隊は、記録を調べてみると兵員100名ほどに、装軌貨車1台とトラック32台があったと記録されています。全員が車に乗って移動するのですから、車が故障した時にはウハチさんの電気の知識が役に立ったかもしれません。

「じゃあほんとは、ウハチさんは敵と撃ち合うはずのない部隊にいたんですね」
「戦闘が激しくなったらそうは言っちゃあいられないよ。
 部隊がサラクサク峠に転進してからは、ゲリラや偵察機やらに狙われていて、
 もし見つかったら次の日は爆撃されるか砲弾の雨だ。動けるのは夜の間だけだった」

サラクサクの作戦では、ずっと荷役人足のように弾薬と食糧を山の上にある前線に運ぶ仕事を何ヶ月もしたそうです。
激しい戦闘が続く山中を、木の枝でこしらえた手作りの背負子に満載した弾薬や食糧を背負って、サラクサク峠に向かう1、500メートル級の山の峻険な岩場やジャングルの続く暗い夜道を歩いたのです。今わたしたちの目の前の老年のウハチさんは、わたしと同じくらいの背丈で155センチほどでしたから、決して頑健な体格には見えませんでした。

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13)ゲリラ

Scan20070128_213457_1「山の中のゲリラと戦ったこともあったんだよ」
「ゲリラって、現地の人でしょう?
 どうやってただの農民なんかと見分けつけるんですか?」
「ふだんは赤やピンクのシャツを着てふつうの恰好しているけどね、
 山の中で動き回ってはこっちの情報を調べて敵に知らせていたんだよ」
アメリカ軍は上陸して日本軍と戦う前からフィリピンの現地人をゲリラとして訓練し、雇ってもいたのです。ゲリラ部隊が相当の数いたそうです。日本の軍隊はこの現地人のゲリラにずいぶん悩まされていたと聞いていました。

「山でゲリラに会ったら、どうするんですか?」思わずそう問いかけてしまった後で、すぐに後悔していました。聞いて良かったんだろうか?
会話をしている縁側には、日除けのための白い帆布が軒先から庭の方まで張り出しています。もうその時間にはだいぶ傾いてはいたものの、まだ山の陰に入る前の西日は、日よけの脇から濡れ縁に座るウハチさんの額を照らし、わたしたちの座っている座敷の奥にまで入り込みいまだに容赦ない熱気を浴びせてくるのでした。そのじっとりとした暑さのなかで、わたしはウハチさんから返ってくる言葉を怖れていました。

ひざまずいている、半裸の姿、浅黒い肌の一人のフィリピン人、言葉は通じない。その人を囲んで、殺気立った兵隊たちがまわりに銃を構えて立っている。そのまま帰したら翌日にはそのゲリラの情報を元にして、自分たちの陣地に空爆や集中砲火が浴びせられるはず。そうなることが分かっていれば、次にウハチさんたちがとった行動は?、、、戦争のルールからすれば、その場で捕虜にして部隊まで連れて行くべきなのですが。

「撃ち殺したよ。戦争だもの仕方がないよ、、、、」 ウハチさんの答える口ぶりはいつものように坦々としていて、特に力を込めて、というのでもありませんでした。

その頃のルソン島の日本軍は、捕虜を収容するどころか、自分たちの食糧さえなくなり、負傷兵や病人で歩けないものはその場に放置されるしかなかったそうです、時には自決用の手榴弾を持たされもして。そんな軍隊の崩壊寸前の状態ですから、捕まえた捕虜を連行する場所も人員も食糧もなかったというのが実情だったのです。だからそんなことは、当時の戦争の現場では日常あちこちでくりかえされたことだったのかもしれません。

そのとき誰が実際に撃ったのか、誰がその決定をしたのかなど、その先はもう言うものじゃない、聞いてもいけない、そんな気がしました。もしかしたらウハチさんはそのことを話すタイミングをずっと考えていたのかもしれないと今では思えます。

「みんな頭が狂ってしまうんだ、気狂いだよ、誰でも戦争の中に入っちゃうと」と付け加えました。
この『告白』に対してわたしも何か言わなくてはと思いました。でも何が言えたでしょう、
「そうでしょうね」と、かろうじて答えただけでした。

それからは気の抜けたような会話がしばらく続き、やがて熱さをもたらしていた太陽も西の山陰に落ちると、ようやく夕暮れの涼しい風が家の前の沢から庭に吹き込んできました。
「またつまらない話をして時間をつぶさせちゃったね」と、笑みを浮かべながらゆったりとウハチさんは立ち上がるのでした。

その後ろ姿を見送ってから、
「アオキ伍長の夢は、これかもしれないね」と夫は言うのでした。
「ウハチさんは自分はまったく潔白だ、とは言い切れないわけだよね、
戦争犯罪人を告発する『首実検』に対してさ」
アオキ伍長が何もしていないとしたら、もしかしたら自分の身代わりになったのかもしれない、という思いがいまだにウハチさんのどこかに引っかかっているのではないか、と。

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12)アオキ伍長

Photo_2その日は縁側に座るなり、
「ゆうべは驚いたよ」と、話し始めたのです。

「山手線の電車に乗って座ってたら、
 すぐ前の吊り革につかまって戦友のアオキ伍長が立っていたんだ。
 思わず、『おまえいつ帰ってきたんだ?』と聞いたけど
 何も答えずに黙ったままなんだ。どうしたんだろう、おかしいな、
 と思ったところで目が覚めた。夢だったんだ。いやな汗をかいてたよ」

「『たしか彼はフィリピンで死んだはずだが・・・』、
 それでも寝ぼけた頭の記憶ちがいか、とも思えて、
 しばらく布団の上で横になったまま考えていたんだけど、
 はっきり確信が持てなくなっちゃってね。
 まだ真っ暗だったから電気を点けて、
 それから戦友会の名簿を引っぱり出して調べた。
 そしたら、ちゃんと死亡欄に名前がのってたよ。
 でもそれから何だか気持ちが悪くなって眠れなかった」

ウハチさんの話によく登場する人物のひとりがアオキ伍長でした。終戦の日まで同じ部隊で行動していた兵隊で、ウハチさんよりもずっと若かったようです。話の中ではいつも「アオキ君」と呼んでいました。

「アオキ伍長がやられた!」という情報が捕虜収容所の仲間うちの噂で伝わってきました。それでなくとも覚悟はしていたつもりでしたが、---アオキがやられたんだったら、すぐおれの番になるだろう---と思うと、それから急に落ち着かなくなってしまったそうです。
「首実検にかけられると、もうほとんど助かる見込みはないんだよ。
 現地人が証人として呼ばれていてね、『こいつがやった』って言えば
 それで有罪が確定してしまう、顔なんか分かりっこないよ、
 みんな適当な罪名なんだから」それは大変な恐怖でした。

戦争が終わったら立場は完全に逆転していました。現地の人たちから罵声を浴びせられながら収容所に向かったという記録はたくさん残されてもいます。
「アオキ伍長は最後までおれといっしょにいたんだから、
 おれは彼の行動を全部見てるんだ、
 現地人に何かしたのは一度も見てないよ。彼は何もしてないはずだよ」
でもそういう人が、自分より先に呼び出されて処刑されてしまい、今ここで自分は生き延びている、ウハチさんには、アオキ伍長への、同情というよりなにか後ろめたいような暗い気持ちが残っていたのかもしれません。

この山間の村でしずかにに暮らしているように見える老人にも、真夜中にびっしょりと汗をかいて目を覚まさせるような苦しい記憶があるのでした。

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11)戦友会

Cimg0947「おれはずっと戦友会には行かなかったんだよ」と、いまだに心にわだかまっているものがあるようなのです。

「最初の頃いっぺんだけ行ったことはあるんだよ。
 会合が終わると次は宴会になるでしょう、
 そうすると酒を注いでまわる人もいるわけだよ、
 『おたくはどこの部隊ですか』って。
 おれの目の前に来たやつの顔をひょいと見上げたら、
 おれに何度も斬り込みさせたやつだったんだよ。
 向こうはおれの顔を覚えちゃいないみたいなんだ。
 『あんたには何度も死にそうな目に遭わせられた』って言ってやった。
 そしたら妙な顔をして向こうへ行っちゃったけどね。
 あのときゃずいぶんいやな気がしたよ」

だんだんかつて上官だった人たちも亡くなって行き、やがて親しい戦友から、
「たまには出てこいよ。もうあいつも死んでしまったことだし」と、戦友会の旅行に誘われ、永い間遠ざかっていた戦友会にもやっとこの頃になって参加できるようになったんだそうです。

「その戦友の人って、いつも桃を送ってくれる人ですか?岡山の」と、思いついて聞いてみました。立派な桃をいくつも持ってウハチさんが初めてうちにやってきた時のことを思い出したからです。
「戦友が毎年送ってくるんだよ。少しだけど食べてみてくんない」と、どこかの方言が混じっているやさしい声でした。まだお隣に住んでいる老人としてしかわたしは見ていなかった頃のことです。

「ウハチさんはアメリカ兵にもなったことがあるから、他の人たちとギャップもあるんじゃないですか?」と遠慮なく聞いてみました。みんなが戦場の思い出話で盛り上がっているときに、両方の体験をしているウハチさんはどんな気持ちでいるんだろうと思ったからです。生き延びるためとは言え、敵国に協力して、しかも占領軍の一員として帰国したのですから。他の戦友たちが終戦後のウハチさんの運命を聞いていたにしても、そんな席ではやはり積極的には話題に出せなかっただろうと思うからです。

それに戦争が終わっても軍隊当時の上下階級の意識が残っているようにみえた戦友会の雰囲気になじめないものも感じていたらしいのです。
「アメリカ軍だって階級にはきびしかったよ。でも軍務が終われば違うんだ。
 将校室で部下の兵士が報告した後、机のうえに座っちゃって
 上官と談笑してたりしていたからね。軍隊の仕事は仕事、
 それが終われば平等の市民としての人間付き合いにもどれるんだ」確かにそんな場面をアメリカ映画か何かで見た気がしました。

「日本人はみんな『権利』ということを気楽に言うけれど、おれは違うと思うんだ。
 義務を果たさなければ『権利』や『自由』なんて言えないよ」もうそろそろ帰ろうとして縁側の横に立ち上がっていたウハチさんは、腰が痛いのか、痩せている背中に手をあてがってはいましたが、胸を張って演説をするようにそう言ったのでした。

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10)海没

Cimg0932_3 「海に投げ出されたおれたちは、
 浮いている板にいっしょにつかまりながらお互いを紐で結んだり、
 声をかけあって絶対に寝ないようにしていたんだけど、
 ひとりで木切れにつかまって流されていった兵隊は、
 きっと沈んでしまっただろうな」と、ウハチさんは言います。その船には、戦車や車両とそれに使う燃料や、武器や弾薬、米などの食料もいっぱい積まれていたでしょうに、それらはみんな海に沈んでしまいました。

 戦友会の冊子や、生き残った人たちが綴った戦争記録がこの家にはあります。ウハチさんが残していったものです。名簿のなかの将校や下士官の名まえ横に、戦死や病死と並んで「海没」という文字を見つけました。きっとウハチさんと同じ船に乗っていて亡くなった人たちのことでしょう。まっ暗な海にもののようにゆっくり沈んで行く人間、そのイメージはわたしを脅えさせました。「水死」というように事実を伝えているだけではなく、まるでそれはその人の運命だったのだと言っているように見えて、恐ろしかったのです。

ウハチさんがフィリピンに渡ろうとしていた当時は、すでに台湾周辺も危険な海域になっていました。アメリカの潜水艦がどこにいるか分からない、それで日本の船は潜水艦に狙われにくいようにジグザグ航行をするのだそうです。でもただでさえ速度の遅い貨物船が、そんなことをしていたのではますますルソン島上陸が遅れてしまいます。案の定というべきか、ジグザグ航行をしなかった船が魚雷を受けて沈んでしまいます。なんと沈んだその船に、またもやウハチさんが乗っていたのです。

「戦場に着く前にもう2回も死にかかってるじゃないですか!?」と、思わずあきれて言っていました。ことが生死に関わることだし、失礼だとは思いましたが、ウハチさんの方はまるで愉快な失敗談のようにおもしろく話してくれるのでした。
「そうだよ。おれは何度も死にかかってるんだよ」と、笑いながら同じ口調で繰り返すのです。
「でも将校は良いよ。船は危ないからって
 こんどは飛行機で飛べるんだから」とは、漂流しているときに板の上にあぐらをかいていた将校のことを言っていたのでしょうか。口元が少しゆがんで、にやっと笑っていました。

あまり皮肉を言わない人が、このときは何か言いたいことがあるようでした。

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9)漂流

Cimg0884_2徴兵検査で落とされそうになったにもかかわらず、昭和17年、日本軍では初めて編成された戦車機甲師団に配属されることになったのは、ウハチさんに電気の技術があったからでした。兵隊になる直前まで、関東配電株式会社(後の東京電力)の社員だったのです。
 戦車は、「車長が一人、操縦手が一人、砲手が二人、通信手が一人の計五人で乗りこむんだ」ということですから、ウハチさんは機械の整備を専門としていたのでしょう。

 家に残されていた戦友会の資料の中に、「耐寒力調査、足立隊」という一枚の手書きの書類のコピーを見つけました。100名ほどの兵隊の評価を書き付けたものでした。ウハチさんの評価は「強兵」と書かれています。その下が「中兵」で、さらに下が「弱兵」になっています。階級は「上等兵」でまだ訓練中の時期のようですが、日付が昭和18年12月22日とあります。文字がかすれていて読みにくいのですが、「凍結標準時間4分」、これは水が凍るまでの時間のことでしょう。指先が凍りそうなのを堪えて「足立隊舎前」でキオツケの姿勢で立っているウハチさんの姿が浮かんできます。

 しかしウハチさん本人から聞かされた満州の話は、
「軍用トラックの排気口に鉄でこさえた箱を取り付けたんだよ。
 その中に弁当を入れておくと昼にはほかほかになるんだよ。
 芋もよく焼いたよ。中に入れておけば、向こうに着く頃には
 ちょうどいい具合に焼き上がってるんだよ。
 おれたちの車だけで内緒にやってたんだけどね、
 他の班はコチコチに凍った弁当を食べてたんだ」と、自分のアイデアを愉快そうに話すのでした。

 戦車第二師団が極秘の命令を受けて、満州からフィリピンに移動を開始したのが昭和19年8月です。終戦の1年前、かなり戦局が厳しくなってきた頃で、本土決戦をいかに引き延ばせるかがウハチさんたちが担っていた任務だったのでした。記録では4つの船団に分かれて海を渡ったのですが、最初に出発した船が台湾沖で沈没してしまいます。ウハチさんも海に放り出されてしまったそうです。

「すぐ近くに浮いていた板きれにつかまったよ。
 そのうちに手にだんだん力が入らなくなってきてね、
 このまま死ぬのかと思ったよ」
それは真夜中のことだったのです。しかも海が荒れていたということもあり、兵隊たちも広い範囲に流されてしまいます。救助船がやってきたのは3日後だったのですが、
「将校だけ助けて行ってしまったよ。あいつらひどいんだ。
 漂流している時だって、自分らだけ大きな板の上に座っていて、
 つかまろうとする兵隊がいると軍刀の柄で手を叩いて振り落としていたよ」
と、特定の顔を思い浮かべている様子なのです。ずいぶん漂流した後にやっと、台湾の漁師の舟に助けてもらったそうです。

 最初の部隊が釜山港を出航してから、最後の部隊がフィリピンに上陸し終わるまで100日もかかったと記録にはありますから、日本のまわりの海はもう無事には航行できない状態だったのでした。

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8)徴兵検査

Cimg0909_1 「おれは何度も死にかかった」というウハチさんのひとつひとつの話をつないでみると、避けようもない運命でという時もありますが、自分でそういう場所に飛び込んで行った時だってあるのです。徴兵検査の時がそうです。

検査官に詰め寄って強引に合格にさせたという経緯があるのです。甲乙丙の「丙」とされて兵役を免れることができたはずなのにウハチさんは、
「帰ってからみんなにバカにされるのが嫌でね、
 『どうしてもこのまま帰るわけにはいかないんだ、
 何とか合格にしてくれ』としつこく頼んだんだよ」
と言います。
「なんでわざわざ・・・」わたしは思わず言ってしまいましたが、
「検査官にも『逆は多いけど合格にしろというのは珍しい。
 ほんとに良いのか?』と言われたよ。
 おれは体は小さいけれどとても丈夫なんだって言ってやった」

もうすっかり白髪のおじいさんなのに、そう言っている時は鼻っ柱の強そうな顔をしていて、「この人は子どもの頃からこうだったんだろうな」と思わせられました。
ふとした時に顔を出すウハチさんの自尊心は、子どもの頃に培われたものなのでしょう。いわゆるガキ大将だったらしいのです。村の子どもを引き連れては、隣村まで殴り込みをかけたりするほどの乱暴ものだったそうで、
「オヤジも怖かったけどなんとかごまかせた。
 けれどお寺の住職だけには頭が上がらなかったな」
と言っていました。「どうにもならないガキ」として坊さんからしっかり烙印が押されていたのです。
オヤジさんは県の役職や村長を務めるような人で、鬼石ではかなり古い家だったんだそうです。

「鬼石(おにし)」と聞いてすぐに、少し前にわたしたちがオートバイで走ったルートの途中にあった村だと思い出しました。谷の深いところを蛇行して流れて行く川を眺めながら、夫とふたりでツーリングをしたのでした。
あのキラキラ光って流れていた川で、ウハチさんはウナギの仕掛けをを川底に沈めたり、子どもらと泳いだりしていたのだと思うと、もっと美しかったであろう昔の風景が頭の中に浮かんできます。

少し下流に行くと川をせき止めてできた大きなダム湖があったことを言うと、
「おれの生まれた家はそのダム湖に沈んでいるんだよ。
 道のずっと上の方に新しく建てた家に、
 今は兄貴がひとりで住んでいるんだ」と話してくれました。

横を走った時、なみなみと溢れるような湖水は澄んだ青緑をしていました。

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7)斬り込み

Cimg0740 「食べられるものはみんな大抵のものは食ったよ。蛇も結構うまいんだ」と、ニヤッと笑って話す口元が、少し得意そうで若々しくも見えました。しかし、夜のジャングルの中を音を立てないように敵陣に乗り込んで行く<斬り込み>の話になると、ウハチさんの目がギョロギョロとしてきます。ウハチさんの生々しい記憶が呼び戻されて、中庭の芝生の上に映し出されているようなのでした。

<斬り込み>とは、少人数でジャングルの中を敵の探知機や集音マイクのバリアーをかいくぐって、敵陣に奇襲をかけることです。成功率も生還の確率もかなり低かったようですが、戦車も車両もが破壊されてしまって兵隊も減って行く中考え出されたゲリラ的な作戦です。

「上官のやつら、おれたちだけに
 何度も斬り込みを命令するんだよ。
 やっと生きて帰って来たのに、
 また『斬り込みに行ってこい』ってね」

ウハチさんが上官に睨まれるようなことを何かやったわけでもないようなのですが、もともとの指揮官が死んでしまったり、兵隊が減って部隊が構成できなくなったりすると、他の部隊に編入されたり吸収されたりして、直属の上官が変わることもあります。そうなると、新しい指揮官と馴染みのない兵隊に危険な任務が割り当てられるということも起きたようです、そこは軍隊といっても人間の集団ですから。毎日が死の恐怖との戦いだったわけで、そんなぎりぎりの精神状態で戦っているうちに気持ちが不安定になる人や、指揮官のなかにだって、現場を放棄して逃げ出してしまう将校さえもいたのだそうです。

「敵の配線ケーブルなんかにも触らないように、
 じりじりと慎重に進んで行くんだ。ほんとうにゆっくりしか進まないんだよ。
 キャンプがすぐ見えるところまで来て、明るくなるのを待つんだ。
 戦車のそばでタバコを吸いながらしゃべってる黒んぼが
 何人か見えたから、そこに向かってみんなで
 イチ、二ッ、サン、で一度に手榴弾を投げたら
 あっと言う間にみんな逃げちまって、誰もいなくなったよ」

アメリカ軍の戦い方をよく知っているウハチさんたちは、逃げた兵隊たちがすぐには戻ってこないことが分かっていたので、それからキャンプの中に残された食糧を探します。
「まずレーションを探すんだよ。
 ずっと夜通し歩いて来たから腹が減ってるし、
 いつも碌なもの食べてないんだからレーションは最高のごちそうだった。
 タバコやガムまで入ってたんだから」
話しながら、ウハチさんは両手でお盆のような長丸の形を作って見せたのです。缶詰になっているランチというようなもののようです。話を聞いていると、まるで地獄の中のピクニックみたいな、ちぐはぐな場面が想像されました。

しかしその手榴弾の爆発の先には死んだアメリカの兵隊がいたのではないか?と思いながらも、聞き直すことはしないで黙って聞いていました。何度も斬り込みに行き、敵兵がすぐ間近にいたことも一度や二度ではない戦闘で、殺したり殺されたりという中にいつもいたはずのウハチさんが、その凄惨な事実に触れたのはこの時一度きりでした。

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6)パチラの木

Cimg0694 その日も片手に肉の入ったアルミホイルを掲げながらやってきたウハチさんは、軒下に置いてある観葉植物に気がついて、
「これパチラって言うんだよ。フィリピンにはこれのでかいのが生えてるんだよ」と言いながら、両腕で丸い輪を作って幹の太さを教えようとしました。
「竹だってむこうのはでかいよ、
 しかも日本のみたいに中が空洞じゃないんだから。
 竹を使いたくてナタで伐ってみたら、
 スカスカしたようなのがぎっしり詰まっていたから驚いた。
 これじゃ使えないなって諦めたけどね。
 あそこは熱帯のジャングルだから、
 何でもすぐにでかくなっちゃうんだろうな」と、ヤシの実の殻に植え込んであったパチラの小さな苗を懐かしそうに眺めていました。

 「ムカデもでかかった」とは、ムカデがきらいなわたしには恐い話でした。山間のこの辺りでは夏になるとムカデが家の中に入ってきて、年に2、3回はぎゃーと悲鳴をあげていたのですから。
「ムカデは良い出汁がとれるんだよ。
 ムカデが出た時にふっとフィリピンのことを思い出して、
 女房に内緒で味噌汁に使って、
 『どうだ、おいしいだろう』と聞いたら、
 『おいしいわね、何の出汁?』と聞くから、
 『ムカデだ』って言ったら、怒ってね。
 それきり食べなかった」と、笑っていました。

 わたしたちはウハチさんの奥さんには会ったことはありません。その10年ほど前になくなっていました。

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5)レモネード

 Cimg0663_1ここらのイナカの習慣に従えば、談話の席には必ずお茶くらいはあるものなのですが、
「お茶でも入れましょうか」と言っても、ウハチさんは頑として断り続けました。そうは言ってもと、ぎこちなく出そうとしたものを、仕方がないので引っ込めてしまっていました。
 でもちょっと変わったものだったら飲んでくれるかもしれないと思って、暑い時期でもあったから、ある日レモネードを作って冷蔵庫で冷やしておいたのです。しっかりレモンをしぼった本物のレモネード、わたしたちが大好きな甘い飲み物なのですが、やはり、
「おれはいらないよ。飲むんだったら、あんたたちだけで飲んでよ」と、これもきっぱりと断られてしまいました。

ウハチさんの話にわたしはたびたび質問を差し挟みます、
「中尉と中佐はどっちが偉いの?」だとか、軍隊の階級や組織のことなどまるで分からないのですから。
「ウハチさんの戦車部隊って、何台くらいで動いていたんですか?」と訪ねてみたりもしました。戦車隊長として数台の戦車を束ねる立場にあったような、でもその時のウハチさんの答えたことを今はもうはっきりとは覚えていません。

 夫の父親もウハチさんと同じで南方に戦争に行っていました。
「ぼくの父はインドネシアに行ったんですけど、場所によってずいぶん違うんですね」
「あっちもひどかったんだろうね」
「そうでもないみたいでしたよ。話を聞いてると、なんか気楽な感じで」
「いやそうじゃないと思うよ」

 ウハチさんが帰った後で夫は、
「ぼくは中学生の頃から戦争の歴史ものなんかを読むのが好きな変な子だったんだよ。それでも本の中に書かれてあることが実感わかないこともあってさ、それでオヤジに聞いたんだよ。例えば仲間同士で殺し合いしたとか、人肉を食った食わないとか、、、それに恐ろしいから逃げ出そうとする兵隊はいなかったのか、とか。
 だから『ほんとうにこんなことあったの?』って。そしたらオヤジは、『それは嘘だ』って言うんだよ、『日本の軍隊は優秀だったから規律もしっかりしてた』って。おかしいな、とその時でも思ったんだけど、ウハチさんの話の方がほんとうに聞こえるね」と、長い間の疑問が少し解けたようなことを言っていました。

 この日もそうでしたが、ウハチさんは何も飲まずに真夏の縁側で何時間も話し続けるのでした。話しているときのウハチさんは何かに対決しているかのような厳しい表情なのです。彫りの深い顔の眼鏡の奥で光っていた目は、目というより眼球そのものに見えました。

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4)バレテ峠その2

Cimg0600「戦車なんて最初だけで、後はぜんぜん役には立たなかったんだよ」と、ウハチさんは言います。戦車や車両の大半をはじめの方の戦闘で破壊されてしまいます。すでにアメリカ軍の持つ兵器の規模や威力は、日本軍のものをはるかにしのいでいました。制空権も完全にとられてしまってからは海からの補給路が絶たれ、ルソン島は完全に孤立した戦場になってしまったそうです。

だんだん戦場は山岳地帯へ移って行きました。車両も燃料も少なくなくなってきてからは、前線へ物資を運ぶのはすべて人力です。
ウハチさんたちは重い砲弾や弾薬を肩や背に担いで山の上にある陣地に担ぎ上げるのですが、広い道を歩いていたのでは敵のアメリカ軍の飛行機に狙い撃ちされるので、ジャングルの中の道なき道を夜になって運び上げたといいます。
「おれたちは何度も峠まで荷揚げをしたんだけど、爆撃がものすごいんだよ。
 昼も夜もめちゃくちゃに落とすんだ」
ある時砲撃から逃れようと、ウハチさんは急いで道の脇に掘られた塹壕に飛び込んだのですが、背中に砲弾の破片を受けてしまいます。
「痛いなんて言ってられなかった」その破片は、ずっと後アメリカ軍の軍病院で抜き取られるまでそのままでした。

 「あんまり爆撃がすごいから、恐ろしくなって穴から飛び出すやつが出てくるんだよ。
 少年兵なんか耐えられなくて、頭が変になっちゃうんだ」
経験が少ない若い兵隊に多かったそうです。
 「こっちはそうなるのが分かっているから、
 戦闘が始まったら少年兵の服をつかんで押さえつけておくんだよ。
 それに逃げ出したくても後ろでは憲兵が銃を構えて
 逃げ出さないように見張っているんだから」

 わたしたちが中庭を眺めながら話をしている縁側の下には、暑さをさけて犬がずっと潜り込んでいました。

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3)バレテ峠

Cimg0575 それまではあまり付き合いもなかったウハチさんが、たびたびわが家にやってくるようになりました。その頃うちに迷い込んで住みついた野良犬への差し入れが目的でした。
「この肉を犬にくれてやって」と言いながら、縁側に腰掛けてしばらく過ごすのです。やがて自身の手でも肉を一切れづつ与えたりするので、犬の方もウハチさんにすっかりなついてしまいました。いつも生肉でしたし、上等の牛肉のこともありました。量も多く、パック詰めの生肉を一枚一枚犬にやっている、その光景はちょっと異常にも思えましたが、孤独な老人の心の中の問題とか、他にも何か特別な理由もあるような気がして、ただ、
「いつもありがとうございます」と言うだけにして、ウハチさんがくつろげるようにと、夫といっしょに横に腰掛けて過ごしていました。

日除けの白い帆布の下ではありましたが、ギラギラ太陽が反射している中で、3人並んで何時間も過ごしている光景は近所の人の目には奇異に映っていたかもしれません。

 ウハチさんが戦争について話し始めたキッカケが何だったかはもう覚えていませんが、「バレテ峠」という地名がいちばん強烈なキーワードとして今も私の頭に残っています。
 はじめはウハチさんは満州で編成された「戦車第2師団」に配属されたのでした。その後フィリピンに戦車が投入されることになったのでルソン島に向かいます。「バレテ峠」とは、フィリピン戦でもっとも激しく悲惨な結果をになった最後の戦場の名前でした。

 こういったことは、家の書棚に残されていた戦友会誌から知ったことなのです。
 実は今の家は、ウハチさんの亡くなった5年後に売りにだされたもので、すぐに私たちが買い取って引っ越した家なです。ウハチさんの息子さんが事業に失敗してお金に困っているというし、こちらも借家住まいの不都合や不満が鬱積していたのでちょうどいいやと思ったですが、どこかでウハチさんの遺志を受け継いでいるような気持ちもあったのかもしれません。
家の中には、ウハチさんが死ぬ直前まで書き続けていた日記も押し入れの隅に残されていました。

 窓から見えるあの縁側を、あの当時のウハチさんの目の位置から眺めている毎日なのです。ふしぎな気持ちがします。

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2)戦車に乗っていた

 真夏の太陽に照らされて、庭の向こうにゆっくりとガレージから出て来るウハチさんの車が見えました。うちの門の向こうのいつもの位置で一旦停まります。それから老人特有の慎重な動きで運転席から降りてきました。出かけるときは必ずガレージの扉をまた降ろすのですが、その日は手に青いバケツを持っていましたから、車の掃除をするつもりなのでしょう。開け放した縁側から見ている私に気がついて、
「今日も暑いね」と笑いかけて来ました。
 紺色の作業帽をかぶり作業用のシャツとズボン、黒いゴム長をはいています。
 買い物や病院に出かける時は、きちんとアイロンのかかっているチェック柄のシャツにゆったりとしたベージュのズボンなどをはき、かなり小柄で痩せた身体でしたが、貧相に見せない上品さがありました。そんな姿から「この人は土地の人ではないな」と最初から分かりました。

 しかし後で知ったことですが、ウハチさんには、アメリカという異国の臭いも入っていたのです。

 ホースで水をジャージャーとかけるというやり方は決してしません。
「水でぬらした雑巾で拭いた方が車には良いのだよ」というのがウハチさんの自説でした。手元を見ると、布ではなくてセーム革を使っています。上等のセーム革らしいのですが、もうすっかり灰色になっていて良く使い込んでありました。
 ボンネットを開けて中の機械まで拭いているのを見た私は、
「エンジンのパイプまで磨くんですねえ」と驚いて言うと、
「僕は戦車に乗っていたからね、どうしても中まできれいにしないと気が済まないんだよ」という答えが返ってきました。初めてウハチさんの<戦争>に触れた瞬間でした。

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1)生き残り

Cimg0503 となりのウハチさんが亡くなったのは聖バレンタインデーの朝でしたから、もうすぐ9年になります。82歳だったそうです。最期の数日こそ病院のベッドの中でしたが、それまではずっと一人暮らしをしっかり続けていました。そのウハチさんが話してくれたフィリピンでの戦争体験のことを、今やっとここに書き留めることにしました。でも、あの時の話をどこまで覚えているか心配でもあります。メモをとることもなく、ただ感心したり驚いたりして聞いていただけなのですから。

 日本が先の戦争で、終戦日の当日まで続いた米軍とのフィリピン戦、そこでの“生き残り”というのは、ほんとうに少ないのだそうですが、ウハチさんの体験の変わっているところは、終戦後アメリカ兵として帰国したことです。敗戦の日本にアメリカ占領軍、つまりGHQの一員となって帰って来たのです。

 最後まで戦えと言われても、武器も食糧も底を付き、ただジャングルの奥へ奥へと逃げ回るうちに終戦になってしまいました。
「捕虜になって良かったよ。あのまま戦争が続いていたら飢えて死んでいた」

 しかし捕虜収容所ではひとりひとり簡単な軍事裁判にかけられます。何の罪を問われるのか、誰が証人なのかもはっきり分らないまま、次々と仲間が呼び出されては判決が下され、その中には戦争犯罪人として処刑される人も出てきました。
「向こうの方に処刑場が見えるんだよ。あいつがやられたらしいって聞かされるとビクッとするんだよ、明日はオレじゃないかと思ってね」
 ただ自分の順番を待っている不安な日々が過ぎて行きました。そんなある日、ぼんやりとひなたぼっこをしていると日系のアメリカ兵に声をかけられたそうです。
「お前何やってたんだ?戦車兵か。電気いじれるか?それならなんとかなるかもしれない」と、何が目的か訳の分からない会話を交わしたそうです。

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