力の正体

太い幹が男の上半身を支えている。緑の梢が柔らかく彼の体を包んでもいる。そういうイメージを裏側に彫ろうとして途中でやめてしまった理由について考えながら彫っていた。地道で途方もない労力をあまり目立たない場所に注ぐには、力と意欲が不足していたのだ。

今はどうか?やっぱりダメだ。彫り出して1時間もしたら疲れてしまって、ソファで少しだけ休みつもりがたっぷりと寝てしまった。起きた時は外はもう真っ暗だった。

外灯を点けに外に出て、帰る前にもう少し彫っておこうとまたノミとハンマーを持って続きにとりかかった。すると、居眠りする前よりもずっと手に力がみなぎっている。彫るべき場所も形もよく見通せた。2時間半も休みなく彫り続けることができた。

山道を足取り軽く登ることができる時は、足の裏を天使が持ち上げてくれているのだそうだ。今日はそいう力を得ていた。優しい励ましに支えられている。(K)

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刻印する

「大学ノートの裏表紙にサナエちゃんを描いたの、でも鉛筆で描いたからいつの間にか消えたの、もう会えないの2度と会えないの」という歌を昔ラジオで聞いた。(鉛筆ではなくボールペンとかマジックで描けばよかった)

「刻印」という目的にとっての技法はアルタミラ鍾乳洞に始まって水彩→テンペラ→油絵の発明に繋がる。その意味でなら銅版画は木版画より優っている。しかし太古から中世までその目的には時代的なものの象徴化があった。現代では個人の思想観念感情の「刻印」が表現活動を支えているように見える。

自意識の刻印化から抜け出さないと自由に絵が描けない。銅版をカリカリ削りながら思った。(画)
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死を語るなかれ

ゆうべ布団に入ってから突然トワンの歳をひとつ余計に数えていたことに気が付いた。今度誕生日が来たら13になるということを春の頃からずっと意識し続けていて、だんだんその日が近づいて、とうとうその日になったらさらにひとつ足してしまったようだ。死を恐れるあまりの時計の早回し、ただ少しボケただけなのかもしれない。彼は2004年生まれと覚えていよう。

物足りない後ろの空間を埋めるために彫った犬が光を放ち始めた。男の体は地面から少し浮き上がっている。天に引き上げられている瀕死の男は、「実はそっと降ろされているんじゃないか」とガハクは言う。物語は逆転し始めたようだ。だからトワンも一歳若返ったという訳か。死を語るなかれ、いや、死を怖れるなかれ。(K)

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感受性に忠実に

描いては消しまた描いては消すを繰り返す制作を目の当たりにして、ジャンジュネは画面に神の像を見、サルトルはそこに実存の追求を見た。当のジャコメッティはたぶん半分気が狂っていたのだろうが、自己の感受性に過酷なほど忠実だったのは間違いない。そしてその絵は若い画学生だった僕を大いに勇気付けもしてくれた。最初に見た衝撃を忘れていない。

机の片隅に今まで作った銅版をいくつか置いていつでもそのどれでも手直しできるようにしてある。一枚を一度に完成までもっていこうとしないで途中まであるプレートに手を入れたら今度はまた別のにとりかかる。油絵でやっていたやり方だ。気楽でいい。写真は少しぼけてるな。(画)
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後ろ姿の軽やかさ

表側に400番の砥石をかけ終わったので、再び裏側に回ってまずは200番から。砥石をかけながら考えた。この空間の無名性が未来的なんだなと。後ろには何もないということがこの彫刻に軽やかさを与えている。これは新しい美しさだ。

今夜から薪ストーブを使った。外に出て煙の行方を確認したら、風向きが良くて川の方へ煙が静かに流れていた。すぐに火力が上がって煙は紫色になって立ち昇る。ほんのりと暖かくて気持ちよく仕事ができたおかげで、帰りに自転車で走り出してもぜんぜん寒くなかった。(K)

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音楽と絵

音楽を聴くと空間的なイメージが湧くというのは当たり前のことだろうか?例えば暗い森の中にいるように感じるとか広々とした荒野の遠くからリャマの集団がやってくるのが見えるとか。
その反対に絵を見ていると音楽が浮かぶというのは一般的ではない気がする。少なくとも僕にそういう体験はあまりない。やっぱりそれは音楽家特有のことだろう。悪く言えば職業病だw絵描きにだってある、何を見てもその描き方を考えてしまうという悪い癖があるようにね。
今日引き出しから出して手を入れた。ブログに載せる為に修正し始めた版画を写真に撮り過去の画像と比べたら結構時間をかけたのに前のとほとんど変わらないように見えたので驚いた。もっと手を入れるつもりだがその時は変わって見えるだろうか。(画)
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12の宝石の内意

祭司の胸には12色の宝石が縫い付けてあって12の部族を表しているのだそうだけど、善と真理の組み合わせが12種類あるというのがその内意。三層に分かれた清涼な気圏のそれぞれに4つに領域がある。

「あなたが読んでおられる本は何ですか?」と聞かれて、
「それを言うと面倒な事になるから言いません」とニコニコしながら答えた。うちの門の前に訪れた伝道者との会話だ。もう20年も前の事だ。面白いビジョンが浮かんだらそれはすぐに彫刻のテーマに結びつき勝手に自由に育っていく。10年も経って眺めてみると、その時には理解できなかったことがぼんやり刻まれていて、今その続きを彫っているのが必然のように思えて愉快だ。

仕事というのは人に頼まれてやるのは霊的な段階で隣人愛、誰にも頼まれないでやるのが直感に導かれる天的な段階の愛に包まれている場所なのだ。誰にとやかく言われることもないそこは自由で明るい場所なんだ。行ってみたことがある人ならば知っている。あゝここは懐かしいところだ。子供の頃遊んだ場所だって♪(K)

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自意識

版画は刷って初めて絵になるので最終的には刷りが問題だ。版面を見て刷りの結果を予想するのだが思わぬ誤算が生まれる。いいこともあるが悪いことの方が多い。つまり期待したようにならないわけだ。
それが苦痛だった時に比べて最近は思わぬ結果になっても落胆しない、むしろそれはそれとして許せるようになった。誤差の範囲とみなすことができるようになったとも自分に甘くなったとも言える。自分に甘いのも時には必要だ。過度な期待は大きな落胆を生み創作意欲さえ下げさせてしまう。悪くもないぞと思ってみればそこには拾い物さえ見つかる。
たぶん自意識を使わずに見ることができるようになったのだ。かといって他人が見るように見るのとも違うのだが。(画)
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天使の眼差し

このところずっと裏側を彫っていたが、今日は表側に回った。いよいよ砥石をかけながら仕上げてゆく。中空に浮くこの子は天使だ。天使に瞳がないのはいかにも淋しいから慎重に平ノミの角で刻んでみた。優しい眼差しでケルビムの長を眺めている風情になった。こういう視線に見守られていれば悪いことは起きないだろう。そんなことを思いながら彫った。(K)

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妥協なき

「イヴィッチ」をまた始めた。あちら立たせばこちら立たず、みたいな感じで行きつ戻りつを繰り返している状態。銅版画ではよくある事なので焦らないように焦らないように…。それにしてもこんなにうまくいきそうでうまくいかないのも珍しい。
妥協なき制作態度…というやつを思い出す。セザンヌがモデルの胸のボタン一つを描くのに数十?回ポーズさせたとか、ジャコメッティの作っては壊す制作の仕方とか、宮沢賢治が生涯にわたって作品に手を入れ続けたとか枚挙にいとまがない。
しかし彼らだって実際には瞬間瞬間少しずつ妥協しながら進んでるんだよ、謂わば妥協の連続なんだよ、そうしなければ何も生まれないもの、それがどの程度の次元なのかという問題に過ぎないんだよ。その次元は個人の意思を超えた所にあるんだよ。(画)
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